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新卒で就いた女性の為のソーシャルワーカー

皆さん、ごきげんよう。今回は私がワシントンD.C.で(以下DC)女性の為のソーシャルワーカーをしていた事を綴ろうと思います。


Washington D.C.での就職


2005年の終わり頃、私がアメリカの大学を卒業した後、新卒で就職した先が、DCで一番大きい社会的に不利な女性の支援をする社会福祉法人・ソーシャルサービスエージェンシーでした。アメリカの首都、DCには国際機関や非営利団体、そして国の組織や政治が存在する街でしたので、規模やスケールが想像を超えるほど巨大で、まるで企業のような日本では見かけないような団体も沢山ありました。そのおかげもあって、就労ビザもスポンサーして頂き、アメリカで働くことの夢が叶いました。私はここで約3年働きました。

読んだ方がわかりやすいと思うので、一応参考までにリンクを貼っておきます。私が働いていた時に職場にダライ・ラマも来てくださった事があります!
ご参考までに:https://www.nstreetvillage.org

ここには、ホームレスの女性達が毎日訪れます。ホームレスの女性達の中には精神障害者、DVで逃げてきた方々、アルコールやドラック中毒の女性達が半数以上で、命に危険を侵してしまうような状況にいる女性達も沢山見かけました。私が働いていた部署はデイセンターと呼ばれるところで、毎日外から沢山のホームレスの女性達が訪れるゲートの入り口。実際にそこに住んでいる社会復帰を目指している女性達も来る場所でもありました。組織全体では、様々なプログラムがあり、当時はグループホームと呼ばれる社会復帰を目指す元々ドラックやアルコール中毒者の方々が住む場所を提供するプログラム、ナイトシェルターと呼ばれる昼間の仕事はあるが、DVや何らかの事情で寝る場所がない女性達が安心して夜過ごせる場所を提供するプログラム、社会復帰をするためのクラスを提供するプログラムとデイセンターと呼ばれる朝8時から夕方まで開いている、教育プログラムや昼ごはんも提供される、女性達が安全に過ごせるというスペースを提供するプログラムがありました。これらの他に、臨床心理士のカウンセラー・セラピストの先生やケースワーカーと呼ばれる日本で言う、社会福祉士の方々がいらっしゃって、メンバーの女性達をそれぞれ担当し、クライアントとして持っていました。AAミーティング(匿名のアルコール依存者が集まるミーティング)とNAミーティング(匿名の薬物依存症者たちが集まるミーティング)も毎週開催され、ボランティアはもちろん、大学院からの医者の卵達がインターンとしてやってくることもありました。ここで素晴らしいのが、女性達の食費、移住費、全てにかかる費用が女性達にとっては全て無料ということです。そこに通うために面接はあるものの、基本誰でもホームレスや困った女性であれば利用はできます。そこのプログラムに入り住むことになると、もう少し厳しい審査やそこに辿り着くまでの条件の順序を踏む必要がありますが、全ては弱い女性達を救うことがミッションであり、それを全面サポートしていくという組織です。50%以上の経営費用が、様々なスポンサーから寄付されているお金などで成り立っており、従業員にもきちんとした給料が支払われ、健康保険等も付いてきます。フルタイムの仕事ですから、新卒ながら普通に企業に就職した気分でした。

上司から学んだ3つのこと


私の当時の上司は、LGPTQの当事者でアフリカ系アメリカ人の女性でした。娘さんと白人のパートナーの女性がいらっしゃる方でした。とても気さくで、明るく、話しやすい、見た目が男らしいのですが、時々お茶目で性格が可愛らしい方でした。彼女から学んだことは、

  • ホームレスになる=何らかの精神的な問題がある。という事。

  • この仕事は誇りを持ってやる仕事で、全ての人ができる仕事ではない。

  • ここに来る全ての女性達はvulnerable(攻撃を受けやすい、弱い、傷つきやすい状態である)であり、人によっては精神的に既に障害を持っている。そのような状態でも一人一人をよく知ること。そして寄り添ってあげること。そのためには時間を一緒に共に過ごすこと。

この3つを理解して行動すれば、きっと女性達から信頼され、ここで成功できる。

最初入社したばかりの時は、先輩方に全てのことを教えてもらいながら、一生懸命学び、早く一人前になって周りに迷惑をかけないようにしようと努力しました。朝はシフト制で、早い時は7時出社で15時終了、遅い時は8時半出社でした。また週末も営業をしているため、同じくシフト制で月に2回(土曜日か日曜日のどちらかを2回選ぶ)ほど出社しました。週末は毎週クラブやパーティーに朝まで踊りに行っていたため、寝ないで出社をしていました。若かったので睡眠はなくても全く問題はありませんでした。(笑)お昼は出来立てホヤホヤの給食のようなご飯を女性達と同じく無料で従業員も食べられるので、新卒1年目の給料の私にとってはお昼代が浮くのでラッキーでした。

仕事内容はというと、デイセンターの運営がスムーズに行くように管理します。女性達を誘導したり、監視したり、教育プログラムのクラスを担当します。ボランティアのマネージから、時々お昼の給食係をホランティアの方々することもありました。毎朝のミーティングでは臨床心理士カウンセラーとケースワーカーの方々がそれぞれのクライアントの状況をアップデートします。それに対して私たちが足りない部分をサポートしていき、どのクライアントが何の薬を処方されて飲んでいるのかということまで覚えさせられました。デイセンターが開いてから閉まるまでの間ひたすら肉体労働が中心の1日でした。毎日が平和というわけではありません。日々警察沙汰になるくらいの暴動や喧嘩が起きることがあったり、それに仲介に入らなくてはいけなかったり、過去に薬物やアルコール中毒者だった人たちの再発が発覚し問題になって大騒ぎになるなど、悪い言い方をすると動物園状態の事もありました。

女性達を知り、信頼関係を築く


私がここで働くときに一番気をつけていたことは、私の上司に言われていた、女性達を知ることと信頼関係を築く事でした。私は毎日レギュラーメンバーの女性達と一緒に過ごしては、大きな花壇が沢山あるまったりできる中庭で一緒にタバコを吸いながら話をしたり、彼女達の生い立ちや過去の話を聞いたりしていました。なぜここに辿り着いたかのストーリーを何人も何十人からも話を聞き、ひたすら彼女達の人生のドラマから何かを学ぶように心がけました。中には映画に出てくるような驚くストーリーもあり、アメリカに普通に生活して住んでいたら絶対聞けないような話も沢山聞くことができました。単純に”知りたい” 、“もっと学びたい”という好奇心旺盛な私の性格がこの仕事で非常に役立ちました。気がつくと私はほとんどの女性達と仲良くなっていて、皆私のことを今度は可愛がってくれるようになりました。初めてのコーンロウの髪型をしたのもこの頃で、クライアントの一人の女性にコーンロウのヘアアレンジをしてもらったこともありました。今思うと、私が唯一のアジア人だった事も女性達と仲良くなれた理由の一つだと思います。自分がマイノリティーだったことで、同じマイノリティーの女性達が親近感を沸かせてくれて心を開いてくれたのかもしれません。

入社1年半が経ち、それ以降は私もクライアントを数人持たせていただき、ケースワーカーとしても務めました。将来的にソーシャルワークを勉強しに大学院に行こうとは考えてはいませんでしたが、実際にソーシャルワーカーの現場の仕事を任されることにやりがいを感じました。ここに来るほとんどの女性達は60%以上がアフリカ系アメリカ人です。クライアントの中には白人も、アフリカ系アメリカ人、ラテン系もいましたが、それぞれバックグラウンドや状況が違い、私が提供するサポートも異なりました。クライアントの一人ミッシェル(仮名)は、13歳の頃からストリートでドラッグをやっていて、その頃からホームレスでした。彼女は当時50歳を過ぎていて、既に成人の娘もいました。彼女はグループホームに住んでいて、私が入社したばかりの時は私にとても反抗的でしたが次第に信頼関係を築いた仲でもありました。社会復帰のために行政に行くときは私も同行し手続きを行ったり、様々な場面で彼女のサポートに回りました。白人のリンダ(仮名)という女性は一匹狼で、集団行動が苦手だったため別のシェルターに住んでいました。パートタイムの仕事をしていて、デイセンターに毎日通っていました。彼女はとても占星術に詳しく私の恋愛相談のためにいつも恋愛の相手を占ってくれてました。ただ、精神病を持っていたため、私とセラピストの先生と一緒に彼女をサポートし行政関係はもちろん、長期で彼女が住める住居を探すために私は彼女に全力で尽くすよう努めました。

ホームレスの女性達の現状


それぞれ皆人生のどん底ストーリーがあり、努力した女性達は、社会復帰をしてここを卒業し、自立して幸せに暮らしていました。しかし、ここで出会った女性達のほとんどは幸せな人生を送れていたわけではなく、それぞれ生きていく中で行き場をなくしたため、この場所に辿り着いています。Ivyリーグの大学を卒業していて、素晴らしい職業に就いたとしても、パートナーから捨てられ、鬱病になり、ホームレスになった女性もいます。弁護士事務所でパラリーガルとして働いていて、いつもオシャレを楽しんでいた女性は、統合失調症のせいで職を失い、屋根がある場所よりも屋根がない場所の方が安全と思うようになったため、スーツケースひとつで公園で生活をしていました。彼女の家族がカリフォルニアから私の上司当てに毎月をお金を送り、そのお金をお小遣いとして少しずつ彼女に渡していました。オシャレには敏感で、いつも華やかな古着を見つけては、それを着こなしデイセンターに来ていました。DVで逃げてきた女性の中にも、子供と離れ離れになってしまったショックから精神病にかかってしまう女性もいました。

女性の経済的自立がどれだけ重要なのか改めて実感し、その為には学べるスキルや教育が必要だと感じました。

私が得たスキル2つ



私が退職する数ヶ月前でした。私のクライアントの一人ミッシェルが突然心不全で亡くなりました。私にとってはアメリカで2回目の葬式への参列でした。毎日会っていたミッシェルが明日から来なくなると思うとショックで仕方ありませんでしたが、不思議と直ぐに立ち直っていました。仕事と割り切っていたこともあったのかもしれません。こういうことが日常茶飯事に起きるということも頭でわかっていたのだと思います。上司が言っていたのを思い出しました。『何でも可哀想とか、気の毒とか思っていたらこの仕事はつとまらない。感情移入をしてはいけない。』その通りだと思いました。私はこの仕事を通して、どんな立場の人とも信頼関係を築いていけるスキルと、どんな状況においても感情移入をしないことのスキルを得ることができました。この2つのスキルは今でも役に立っています。

私が退職をアナウンスした後は、一冊の素敵なノートに沢山の女性達が私のためにメッセージを1ページ1ページに書いてくださり、最後は送別会までしてくれました。その時に撮った写真があるのですが、ネガをしまっているだけで、まだ写真に現像していません。(笑)あれから17年も年月が経ったのですが、もうそろそろネガを現像して写真にしたいと思います。何だかタイムマシーンのようです。

ちなみに、白人のリンダとはEmailで数年やり取りをしていましたが、途中で彼女のメールが使えなくなったため返事が途切れ、音信不通に。彼女との最後のやり取りでは、当時彼氏だった私の現在の旦那さんと私の占星術の占いをしてもらい、その結果まで送っていただきました。良い思い出です。彼女が元気なことを心より祈っています。





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