MacBookが壊れた。言葉が好きになった。
ソワソワする。
とてもソワソワします。
僕は旅行中でも、そこで見たもの、聞いたこと、出会った人から発見があれば何かを作っていたいのですが、やはりMacがなければ何も生み出せません。今まで本づくりも、グラフィックデザインも全部Macに頼っていました。デザイナーとしての底の浅さを痛感しました。
何かに出会ってもそれを表現することができない。強制的にものづくりの原点に立たされました。留学生活という刺激に対して、アウトプットのない日々のギャップに悶々としています。
ものの見方が変わって言葉の可能性に気付いた。
それでも、代わりに言葉の大きな可能性に気付いたような気がします。アートボード上に表現できないことを文章で伝えようとnoteを始めました。
言葉はやはりすごいです。
言葉と感情は密接に繋がっていて、言葉ひとつで人を動かすことができることを実感しています。
その理由は「ものの見方」が変わったからであると思います。
Macbookがあった頃はグラフィックやイラストを多く作っていたので、美術館に行っても、綺麗な街並みを見ても、色合いや形の方を意識して捉えていました。しかしMacがなくなった今は、言葉を使って考えることが圧倒的に多くなりました。
例えば、こう言った写真を見た時に、以前は「白のバックに赤が映えるなあ」とか、「自然の造形の中に人工の形がうんたらかんたら」みたいなことを考えていました。今では______変な話ですが、「雪山に消火栓がある意味」とか「山奥にステッカーを貼る気持ち」みたいなことを考えたりします。何を思考の対象にするか変わり、またその背景にあるストーリーを面白がるようになりました。
ものの見方が変わった理由
ものの見方が変わった経緯には、雑誌を作りはじめたこと、noteを書くようになったことが大きく影響していると思います。
僕の場合、デザインやアイデアに関する会議でも、僕の言葉は抽象的な表現が多くあるので、他の人に伝わりづらいことがよくあります。「これおもろくね?」みたいな話をしても、共感を得られなかったり、ちょっと何言ってるか分からない的なことがしばしばあります。
そんな中で、雑誌作りやnoteの影響もあり、文章で人々に何かを伝えるために自分の感情を他人が理解できる言葉まで噛み砕く作業をよくするようになりました。その言語化作業の繰り返しによって「ものの見方」が変わったように感じます。
言語化という作業においては、ストーリー性を意識しています。他人のロジックを想像しながら、話を進めることができるように。
また、自分の行動や感情に行き着いた起承転結を他人が追体験できるように。
その結果、一つの事象をストーリーで捉える癖がつき、ものの見方が変わったのだと思います。
人生は一つのストーリーで、言葉がそれを繋げてくれる。
ものの見方が変わったので、ずっと前の自分の過去の行動や感情にもストーリー性を見見出すようになり。そして過去の感情をターゲットに繰り返し言語化しているうちに、自分が本当にやりたかったことやこれまでの人生について目を向けるようになりました。感動したことやワクワクしたことを言葉に変えた時に、その昔に同じ感情を持っていた瞬間を思い出すことがあります。
そのおかげなのか、尖っていた頃の自分を肯定するわけではなく、ただ間違ってなかったと思えます。
shelterという雑誌のコンセプトが生まれたのは、今も昔もひっくるめてやりたいことを考えた結果です。
そのコンセプトを決めた時、これまでの人生は全部繋がっているんじゃないか。自分のルーツを探るってこういうことか!という感じがしました。
まだ、他人の心を動かすような言葉を書くことは難しいですが、今自分を動かしている原動力は言葉であると思います。
その可能性に気づくことができてよかったです。Macが壊れたおかげです。
海外にいると、何が面白くて何がおもんないか分からなくなることがたまにありますが、「言葉は面白い」と信じることにしました。
言葉が自分を動かしてくれているように、自分の書いた言葉が誰かの心に届くことを目指して頑張っていきます。
エディターの独り言 vol:4
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デザインは非言語だからもっと難しいな。
言葉を操れるようになった時にようやくデザイナーとしてのスタートラインなのかもしれない。
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