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アンティークコインの世界 | 古代コインのコントロールマーク

今回は、表題の通り古代コインのコントロールマークについて述べていく。古代コインのフィールドの空白部分に打たれているシンボルやモノグラムは、管理上の理由で打たれているものがあり、それらを総称してコントロールマークと呼ぶ。このコントロールマークにおける当時の利用方法は文字資料が現存しないため、未だ不明点が多く推測の域を出ないが、今回はその役割を考察していく。

地域別、年代別でコントロールマークを観察していくと、やはり規則性が見出される。当時の国家が意図してマークを入れていたことは明らかであり、管理上の理由があったのは確かだろう。多くの場合、造幣責任者のイニシャルが刻印されている。だが、それだけでは説明がつかないマークも数多く確認されている。

先に述べた規則性についてだが、コントロールマークには一定の規則性と変遷がある。コントロールマークの転換期は、アレクサンドロス大王以降のヘレニズム期に表れる。コントロールマークは当初シンボルだったが、モノグラムになり、最終的に文字になるという流れが確認できる。ヘレニズム期に貨幣は、その捉え方が図像イメージから文字に変容していった。これは識字率の上昇による変化とも推測できるかもしれない。以下、ヘレニズム期のマケドニアで発行された貨幣を例を挙げていく。

ボイオティア式盾ととぐろを巻く蛇のシンボルが打たれた、ヘレニズム期初期のマケドニアで発行されたテトラドラクマ銀貨。

モノグラムが打たれたヘレニズム期中期のマケドニアで発行されたテトラドラクマ銀貨。

財務官アエシッラスの名が刻印されたヘレニズム後期のマケドニアで発行されたテトラドラクマ銀貨。アエシッラスの名がフルネームで記されているところに注目したい。

従って、マケドニアのヘレニズム期の貨幣はの上の図式のような変遷を辿っていることが分かる。貨幣発行の管理が複雑化し、より堅固なセキュリティを求めるための変化だったのだろうか。発行当時の造幣責任者が誰だったのかを後から追跡したい場合、シンボルやモノグラムより文字の方が確証を得やすい。

ただ、冒頭で述べたようにコントロールマークの全てが造幣責任者の名ではなさそうである。というのも、古代ギリシア人の名を調べてみると、Mから始まる名は少ない(メネラオス、メナンドロス等)が、貨幣の上ではMの刻印が頻出する。となると、コントロールマークは何か別の意味を持つものの組み合わせと考えるのが妥当だろう。

では一体、他に何を示しているのだろうか。造幣責任者だけではなく、それを受け取る側を示している可能性はないだろうか。この推測は、ローマのアントニウスが発行したデナリウス銀貨からヒントを得られる。この銀貨には造幣責任者アントニウスの名とそれを受け取る側の軍団番号が記されている。

アクティウムの海戦に向けて発行されたアントニウスのこの銀貨には、それを報酬・資金として受け取る側の「第15軍団」が示されている。一目で第15軍団のためのものと分かる。彼が持っていた30の軍団には番号が振られていた。この銀貨には15と記されているが、別の軍団番号を示したものも存在している。

この例から発行側が受け取る側に正しく供給されているかを追跡するため、コントロールマークを使用していた可能性が推測できる。シンボルやモノグラムにも、そうした意味を持たせていた可能性が考えられる。貨幣に供給先を記しておくことで、発行側は発行量を管理・記録することができたのではないか。

コントロールマークの使用方法の可能性として、どの地金から切り出して造られたのかを特定するための認識マークだったも考えられる。材料となる地金に特定のマークが予め記されており、そのインゴットから造った貨幣には同じマークを打ち、生産数を記録・管理していたのではないだろうか。

これによって職人たちが何枚の貨幣を造ったのかを計り、出来高による給与支払の管理も同時に行えたのではないだろうか。不正防止の役目も担っていたと考えられる。材料になった地金と、その品質をチェックした責任者を固有の認識マークにより特定することで、不正が起きた際に追跡できたのではないか。

貨幣を造る際の地金がどこから来たのか鉱脈を示している可能性はないだろうか。貨幣は品質が重要であるから、どの鉱山から来た地金で、誰が持ってきたのか、またはチェックしたのかは重要そうである。5W(いつ、どこで、誰が、何を、何のために)の一部をコントロールマークとして記したのだろうか。

コントロールマークは、貨幣を造る工房または型を提供した請負業者を示している可能性も挙げられる。どの工房がどのくらい生産を行ったのかを把握することは、発行側にとって重要そうである。前述したが、それは工房の職人への給与支払にも関わる。不正があった際、工房や型の出どころは追跡に役立つ。

エジプトではプトレマイオス1世の治世には貨幣上にシンボルやモノグラムが確認できるが、プトレマイオス2世の治世になると姿を消し始める。そして、プトレマイオス朝後期になると、発行年と造幣地を示す形式に変化する。ΠAはアレクサンドリア、パフォスはA、キティオンはKI、サラミスはEAで示された。

プトレマイオス朝エジプトでは、コントロールマークの必要性がなかったのだろうか。推測だが、アレクサンドリア大図書館を見ても分かるように、パピルス大国であるエジプトは紙ベースの文書管理が高度に発達しており、コントロールマークを貨幣の上に示す必要性が既になくなっていたのかもしれない。
エジプトでは発行年と造幣地が分かれば、当時の造幣責任者を文書から十分に追跡し、特定ができたのだろう。

セレウコス朝シリアの貨幣は、コントロールマークが通常1つ、場合によっては2つ記されている。ただ、全く記されていないこともある 。その他、彼ら特有の年号が示されている場合もある。上のオンファロスに座すアポロンを描いたものは、セレウコス朝シリアで発行されたテトラドラクマ銀貨である。

一方、古代コインの青銅貨には、コントロールマークが入っていない場合が多い。これは額面が低いからか、そこまで厳重に管理をする必要性がなかったからだろうか。あるいは、王室や政府が青銅貨の発行を民間や個人に委託しており、そのためコントロールマークが記されなかったのかもしれない。

共和政ローマでは、前110年頃から前60年頃の間、コントロールマークがデナリウス銀貨に頻出する。当初は必要なかったが、発行数の増大によってより正確な管理の必要性が求められたのだろうか。以降は有力な軍人たちが自分の名前で勝手に貨幣発行を始めるため、コントロールマークは再び姿を消す。

アレクサンドリア造幣所の造幣責任者と考えられているデメトリオスは、前258 年の書簡で財政官アポロニオスに貨幣の再発行に関して綴っている。この書簡から分かることは、貨幣発行の全決定権は王に属し、それが王の重要な公務のひとつだったということである。この資料を参考にするなら、エジプトにおいては前述した青銅貨発行の民間・個人委託説は否定されることになる。

さて、ここまで長々述べてきたが、文字資料が現存しないため、最終的には何も分からないというのが答えとなる。そもそも貨幣発行は秘匿事項が多いだろうから、最初から文章化されていない可能性も高い。だから、今後文字資料が発見される可能性も極めて低いものと思われる。断定できる文字資料がないため、先に述べてきた内容はやはり想像の域を出ない。時間と労力をかけた結果が、結局、何ひとつ分からなかったということになる。力不足を痛感するばかりである。

主要参考文献

David R. Sear, Roman Coins and Their Values: Volume 1. The Republic and the Twelve Caesars, 280BC-AD296, Spink, 1970
David R. Sear, Greek Coins and Their Values: Volume 2. Asia and Africa, Spink, 1978
Aidan Dodson, Dyan Hilton, The Complete Royal Families Of Ancient Egypt: A Genealogical Sourcebook Of The Pharaohs, Thames & Hudson, 2004
Karsten Dahmen, The Legend of Alexander the Great on Greek and Roman Coins, Routledge, 2007


Shelk🦋

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