金木犀の匂い

僕と姉は二人で一部屋、古いアパートの八畳間を与えられている。僕は中学1年生、姉はもうすぐ高校を卒業するという歳なのだから、さすがにそろそろ一人だけの部屋が欲しい。しかし、パートの仕事を掛け持ちして僕達を育ててくれているシングルマザーの母に向かって、とてもそんなわがままは言えない。そんなことを思い、今夜も姉と布団を並べて敷いて溜め息をつく。

姉に背中を向ける体勢で横になり、眺めるのは父からの手紙。といっても、これは最近送られてきたものではない。僕が小学4年生の秋に届いた、父からの最後の手紙だ。理由は教えてもらえていないが僕も姉もまだ幼い頃に母と離婚した父は、その頃まで頻繁にわざわざ僕と姉へ別々に手紙を書いて寄越していた。姉は思うところがあったのか返事を書いたそぶりはなかったし、僕はというと、別れた時が幼すぎて父との記憶がなく、何を書けばいいのかわからなくてやはり返事を書かなかった。

それでもずっと手紙をくれ続けていた父から、僕が今眺めている手紙を最後に音沙汰がなくなったのは、実のところなぜなのか未だにわかっていない。手紙の内容は、ごくありふれたものだ。父の住む土地の秋の様子と、仕事であった面白い話、当時流行っていたテレビドラマの話といったところで、それ以降の手紙が途切れる予感は感じられない。

手紙がない理由を母に聞いたことがある。母は特になんの感情も乗せずに「さあ、母さんにもわかんない」と言うだけで、死んでしまったのか、などという縁起でもない質問にも同じ口調で「それはないはずだけど」と返すのみ。同様に手紙が途切れた姉に聞いてみても情報は得られなかった。

そんな謎の残る父からの最後の手紙を、僕は未だにたびたび取り出しては眺めて、父の癖のある筆跡を目で辿ってしまう。思い出もない、面影も思い出せない、そんな父なのに。

「佳樹、電気消すよ」

声が上から降ってきたので顔を上げると、姉が起き上がって蛍光灯の紐に手をかけていた。僕は慌てて手紙を封筒に戻し、枕元に置いて毛布を被る。姉はそれを確認して紐を引っ張った。

「姉ちゃん」

「ん?」

暗闇の中、天井を向いて姉に声をかけた。

「キンモクセイって何?」

父からの手紙で印象に残っている、しかしその正体を知らない言葉が口をついて出たのは、ちょうど今が手紙の届いた季節と同じだからだろうか。

「花だよ。秋に咲いて、なんかいい匂いがするらしいけど。でも姉ちゃんもどんな匂いなのかまでは知らない」

僕は驚いた。少し歳の離れた姉は、母が仕事で僕達を残して留守にすることが多かったからか、僕の小さなお母さんのようだった。僕の遊び相手をしてくれたことも数え切れないほどあるし、僕に教えてくれたこともまた数え切れない。昔から人より賢かった姉は、僕が思い付きで言う「何?」「どうして?」という問いになんでも答えてくれた。そんな姉にも知らないことがあるというのは、僕にとっては新鮮なことだった。

「このへんには咲いてない花みたいだよ。寒さに弱いんだって」

姉は言う。確かに、僕の住む北国では寒さに弱い植物は育つことができない。消印の地名が東京になっている父の手紙から、キンモクセイという花は東京には咲いていることが窺い知れる。

「父さんの手紙にさ、キンモクセイの匂いで秋を感じるって書いてあるんだ。どんな匂いなんだろう」

僕の言葉に、姉は少し唸ってから言った。

「姉ちゃんも知りたい。いくら本で見ても、匂いまではわかんないもんね。姉ちゃんが東京に行ったら、どんな匂いだったか教えてあげるよ」

「姉ちゃん、やっぱり東京行くの?」

僕は途端に寂しくて心許ない気分になる。姉は次の春から東京の専門学校に進学することが決まっているのだ。成績がいいと授業料が免除されるのだそうで、姉はそれを狙って進路を決めたようだ。成績の飛び抜けていい姉が大学に進学しないことを母は残念がって、奨学金ででも大学に行ってほしいと言ったが、姉は授業料のことや得られる資格のこと、叶えたい夢のことを訴えて母を説き伏せた。なんでも、国内でも数の少ない学校で珍しい資格を取って、その道のスペシャリストになりたいのだという。僕には何の話だかよくわからなかったが。

「行くよ。姉ちゃんも夢叶えたいんだ。それに、姉ちゃんが一人暮らしすれば、この部屋はあんた一人の部屋になるよ」

「うん…」

一人の部屋は確かに欲しい。姉の夢も叶えてほしい。それでも、もう一人の母のように思っていた姉がいざ遠く離れると思うと、どうしようもなく不安なのだ。

「おやすみ」

姉が寝返りを打つ気配を感じて、僕も「おやすみ」と返す。

なかなか来ない眠気を待ちながら、キンモクセイなる花の匂いについて想像を巡らせる。思い出せるのは、郵便受けを確認した時の玄関の古いコンクリートの匂い。洒落っ気のない便箋の紙の匂い。乾いた冷たい風の匂いに、母が剥いてくれた僕の好きな梨の匂い。どれもキンモクセイとは違う匂いであることは明らかだ。音や形を想像するよりも、匂いを想像することは何倍も難しい。

目をぎゅっと瞑ると、暗闇にちらちらと小さな光が明滅する。その後に見えてくるのは、先程まで見ていた父の筆跡の残像。達筆と癖字との紙一重のような特徴ある筆跡だ。筆跡で父の顔まで想像できるほど、僕は想像力豊かではない。それでも、一通残らず捨てずにとってある父からの手紙を読み返せば、人柄の一端くらいはわかるかもしれない。キンモクセイの匂いで秋を感じた父を思う。このあたりにキンモクセイなど咲いていないことをおそらく知っていたであろう父は、なぜ小学生の僕にそんな文面の手紙を寄越したのだろう。

姉は東京に行ったらキンモクセイがどんな匂いだったか教えてくれると言った。しかしいくら姉が僕に匂いを伝えてくれても、僕には到底想像できないだろう。

僕の知らないものを見て、聞いて、感じていた父。僕の知らない世界に一人飛び込んでいく姉。僕の知らないところで昼となく夜となく働く母。そして僕も、いずれは母や姉の知らないどこかで一人で生きていくのかもしれない。一度は縁の繋がった僕達なのに、共有できないことがあまりに多すぎる。家族仲は悪くない方だと思うのに、シングルマザーだって今時珍しくもないはずなのに、家族それぞれが途方もなく遠い存在になっていくような、漠然とした不安に襲われてしまう。

短い夏が終わって、冬を迎える準備の秋。実った果実も色づく木々も、それは終わりに向かっていく姿なのだ。春が来ればまた命が始まる。それはわかりきっているが、冷たく世界を閉ざす冬が長すぎて、永遠の終わりのようにも思えてしまう。秋は寂しい季節だ。秋を感じさせるというキンモクセイの匂いも、きっと人をそんな寂しい気持ちにさせる匂いに違いない。

いただいたサポートて甘い物を買ってきてモリモリ書きます。脳には糖分がいいらしいので。