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魔女見習いのしずちゃんを探して/考察ドラえもん⑮

『魔女っ子しずちゃん』
「てれびくん」1981年8月号/藤子・F・不二雄大全集19巻

「2001年宇宙の旅」などの著作で知られるSF作家、アーサー・C・クラークは、「未来のプロフィル」というエッセイ集の中で、クラークの三法則と呼ばれる科学技術の法則性について言及している。

半分ジョークのようなことだったらしいが、示唆的でいまだにあちこちで引用される文言となっている。一応ここで紹介しておく。

1.高名だが年配の科学者が可能であると言った場合、その主張はほぼ間違いない。また不可能であると言った場合には、その主張はまず間違っている。

2.可能性の限界を測る唯一の方法は、不可能であるとされることまでやってみることである。

3.充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。

一番有名なのが3番目で、一度は耳にしたことがある人も多いことと思う。

魔法と科学の双方への憧れを隠さないF先生は、この3法則を知らないわけがない。それどころか、これを意識した作品作りをしていたのではないかと思われる。


ドラえもんの出すひみつ道具は、22世紀の未来の科学製品という設定だが、夢のような効用・効能を持ち、科学的裏付けは無視された魔法の道具ばかりのように思える。

例えば、タケコプターは、小さなプロペラが、ペタリと体にくっ付き、自由に空を飛びまわれるという、超科学的なアイテムとなっている。くっ付く仕組みも、あの回転で浮き上がる仕組みも、科学的に成立するとは思えない。

しかし、今の話と矛盾するが、この先の未来で、いかなる技術が開発されるかなどわからない。なので、科学に立脚しているという「設定」で、魔法のようなひみつ道具を「あえて」登場させていると見るべきだろう。


魔法と高度な科学は、マンガで描けばその区別は一見つかないものであって、容易に混同してしまう。書き手が混同すれば、ご都合主義に陥りかねない。それを巧みに避けるのがF先生のやり方なのである。

F先生は常日頃、少し不思議のSF漫画家を標榜している。軸足は科学技術であって、魔法のような効能も、必ず科学に立脚した設定にしているのである。つまり、F先生はファンタジー作家ではない、ということだ。

ところが、ややこしいことにF先生はファンタジーも大好きなのである。魔法や魔法使いや、超能力や超能力者に対する憧れも強いのである。

SF作家であるF先生が、超能力をどのように表現するかについては、近く「エスパー魔美」の詳細解説を用意しているのでそちらに譲りたい。また、SF短編集の中でも「あいつのタイムマシン」のように、タイムマシンを完成させるには、もはや技術ではなく意思である、といったファンタジーに寄せる作品も描いている。


私見だが、F先生が最も重視していたのは、「リアリティ」ではなかったか、と思っている。「ドラえもん」という非科学的な道具を、科学として描く。「魔美」の超能力を身近なものとして描く。「オバQ」ではオバケを卵から生まれた生き物として描く。等々、枚挙に暇はない。そんなことあり得ない、という気持ちにさせない作品作りを心掛けているように僕には思える。(宮崎駿氏にもそれを感じる)


前置きが長くなったが、今までの見解を踏まえて本作を見ていきたい。
物語は、小さい頃から魔女に憧れていたというしずちゃんの思いから始まる。

「童話みたいに魔法でパッパッと何でもできて、困っている人なんか助けてあげたら、どんなに楽しいだろうなって。そんなこと空想してるの」

この話を聞いたのび太は、「その夢叶えてあげよう」と安請け合いをする。

ところが、のび太に頼られたドラえもんは、「人を魔法使いにする道具なんてあるもんか!!」と怒り出す。科学ロボットであるドラえもんには、魔法というファンタジーは相容れないものなのである。

結局ドラえもんは、しずちゃんが助けたい人を見つけたら、その都度適当な道具を貸し出す、という方法を思いつく。

まずしずちゃんは、空飛ぶほうきを要求する。「タケコプター」を提案するが、それに対してしずちゃんは、

「サリーちゃんもメグちゃんもララベルも、みんなほうきに乗っているわよ」

と譲らない。

ちなみにしずちゃんがここで言及している魔法少女を下記にまとめておく。よく知らない方は検索をして貰いたいが、一世を風靡した魔女っ子たちである。

「魔法使いサリー」1966年12月〜1968年12月放送
「魔女っ子メグちゃん」1974年4月〜1975年9月放送
「魔法少女ララベル」1980年2月〜81年2月放送

これらは全て東映アニメーション製作で、この流れの下にセーラームーンやプリキュアがあり、昨年公開された「魔女見習いを探して」がある。

しずちゃんの粘りに対してドラえもんが出した道具は、「無生物さいみんメガホン」。生きていないものに催眠術を掛けるという効用で、この道具などはもはや魔法同然だとは思うが、形状をメガホンにしているので科学製品として無理矢理に納得させてしまう。

この道具でほうきを飛べるようにするのだが、乗り心地は良くない。しずちゃんは振り落とされながら、練習して乗りこなせるようになる。ここで、パッとほうきに乗せないのがポイントで、乗り物としてのほうきのリアリティを出すようにしているのである。

次に出す道具は「タスケテ帽」。被ると困っている人を指し示してくれる優れものだ。この道具も実はリアリティを意識したもので、急に魔女になったからって、都合良く助けて欲しい人が見つかるとは限らない。偶然に出食わすかも知れないが、それを重ねるのは現実的ではないからだ。

この仕組みは「エスパー魔美」でも同様に採用している。

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最初の困った人はのび太で、それを無生物さいみんメガホンで解決すると、毎回ドラえもんの道具を借りるのは面倒ということで、ドラえもんのポケットごと借りることになる。

いよいよ本格的に魔女としてほうきに跨がって飛び立つしずちゃんだったが、困っている人の反応がなかなか無い。その内ある所に違和感を覚える。

「長い間乗っているとどうも…」
「サリーちゃんもメグちゃんも痛かったのかしら」

股間を気にするしずちゃん。魔法少女ギャグとも言える所だが、ほうきに跨ることはどういうことかというリアリティを強く意識している。

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最初の困った子が見つかる。友達の誕生パーティーに着ていく服が無くて困っている女の子である。しずちゃんは「魔法で助けてあげます」と言って「着せかえカメラ」を出し、素敵なドレスを着せてあげる。

この女の子にとっては、着せかえカメラは魔法そのもの。本稿の最初に書いたクラークの第3法則通りの反応なのである。

しずちゃんはその後、魔女っ子の活動に夢中になって時間の経つのも忘れて飛び回る。マンガではその辺は描いてないが、本作は何度もアニメ化されていて、その中では他の活躍も登場させている。中には、着せかえカメラで、自分の衣装を魔女っ子仕様にしている話もある。

オチは、遅い時間まで出歩いてしまったしずちゃんが、怒られて家の中に入れて貰えず、困って泣き叫ぶというもの。最後は自分が助けて貰いたい、ということなのだが、これまたリアリティに基づいたギャグとなっている。

つまり魔法使いの時間は、他の人同様有限だと言うことだ。人を助ける時間が長引けば、自分の時間が削られ、自らが困ることになる。つまり、献身的な魔法使いというものが成立しない事を、指し示しているのである。


本稿ではF先生のリアリティ志向をじっくりと検証した。ぜひこの観点でドラえもんなどを読んでもらうと、奥深いものが見えてくるかも知れない。

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