いつの時代も落ちこぼれは「T・Pぼん」『魔獣デルプ』/石器時代の物語③
「石器時代の物語」と題して、「ドラえもん」に登場する石器時代のエピソードを2本続けて紹介した。
特に2本目の記事にした『石器時代のホテル』は、後の大長編「のびの日本誕生」のパイロット版ともいうべき充実度の高い作品であった。
この作品は1982年の10月に発表され、その一昨年前に映画にもなった『のび太の恐竜』に関連するセリフも散見される楽しいお話である。
そしてこの作品の執筆にあたって、石器時代のことを少なからず藤子先生は調べていたようで、まだまだこの時代を舞台にしたお話を描けると考えていたように思う。
それが後に大長編の「日本誕生」を生み出すことに繋がるのだが、その前にもう一作石器時代を舞台とした作品を描いている。それが『石器時代のホテル』からわずか7カ月後に発表された「T・Pぼん」の『魔獣デルプ』というお話である。
ドラえもんの『石器時代のホテル』は、今の時代が嫌になって、石器時代は良かったと懐古するのび太たちが、石器時代の過酷な環境を体験して、今の時代を良くしていくべきだという結論に辿り着く、とても前向きな一本となっている。
本稿で紹介する「T・Pぼん」の『魔獣デルプ』も、そうした今と石器時代の2つの時代の落ちこぼれ少年を対比させて、最後は非常に前向きな気持ちにさせてくれる作品となっている。
本作の舞台となる「石器時代」だが、一口に石器時代と言っても、人類史においてかなり長い年月の期間が含まれている。ざっくり石器を使っていた時代と定義できるので、次のヒトの主たる道具となる「青銅器」や「鉄器」が開発・使用されるようになるまでの時代は全て「石器時代」なのだ。
さらに「石器時代」は大きく3つの時代に区分できる。それが、
・旧石器時代
・中石器時代
・新石器時代
である。
新石器時代は「磨製石器」が使用され始めた紀元前8500年前頃からの時代とされる。中石器時代は旧石器時代との間の時期という意味合いとなる。
主に打製石器を用いていた旧石器時代もまた、大きく3つの時代に区分されている。
本作では、クロマニョン人が地球上の主役に名乗り出た後期旧石器時代(約3万年前から1万年前)が舞台となる。この時代は石器が急速に高度化していて、狩猟などのテクニックも向上していた。そんな時代背景を踏まえた作品となっている。
本作は「T・Pぼん」第二部の作品。主人公・並平ぼんが正式なT・P隊員になっていて、見習いのユミ子とともに活躍している頃のお話となる。
日曜日。ぼんが趣味の漫画を描いていると、母親に勉強しなさいと注意されて、せっかく描いた原稿を窓からばら撒かれてしまう。「人並みの成績を取ったら漫画でも何でも描きなさい」と、傷つくセリフ付き。
勉強する気も失せ、友人の家に遊びに行くと「学歴が無くても一流会社に入れなくても食っていけりゃそれでいい」とか、「頭が悪くても人間探せばどこか取り柄があるものさ」などと慰めてくれるのだが、もちろんかえって落ち込んでしまうぼんである。
何気に始まる導入部だが、もちろん本作のテーマの根幹となるやりとりが含まれている。現代社会において、「勉強ができる」が唯一最大の生きる指針となっているが、そうではない仕事、生き方があるんだというヒントらしきものが散見されるのである。
落ち込むぼんに、T・Pの仕事依頼が舞い込む。「人の面倒見ている余裕はない」と断ろうとするぼんだが、「思うように時間を使えるT・Pに忙しいという口実は通用しない」と一刀両断される。
向かう先は2万931年前の南仏、クロマニョン人の子供を救出するという任務である。本部の人間は、ある意味でぼんと似た境遇にいる少年で、得るところがあるかもしれないと付け加える。それは一体何のことだろう?
ユミ子を連れて、任務に向かうぼん。圧縮学習をしたので、クロマニョン人のことを良く理解できている。具体的には・・
ちなみに一瞬で知識を詰め込める便利な圧縮学習だが、その場限りで身につかず、学校の成績には反映されないらしい。(こんな設定あったかしら?)
救助するクロマニョン人の少年が崖から落ちて大怪我をしている。しかし死ぬのは今日ではなく、9日後にコエロドンタの角にかかって殺されるのだという。そこでここは瞬間治療薬を打って、少年を元気にさせる。
コエロドンタとは、ケブカサイと一般的には呼ばれている氷期を代表する獣(サイの仲間)のこと。
少年は集落(バンド)へと帰っていくが、なぜか戻ることを許されず、そのまま追放されてしまう。なぜ追放の憂き目にあったのかは、この後明らかになっていく。
石器時代において、たった一人で生きていくのは困難極まる。しかもまだ少年の身。ぼんたちが様子を伺っていると、獣には逃げられ、魚も捕まえられない。結局ささやかな木の実が夕食となってしまう。この感じだと、9日後を待たずして死んでしまうかも・・。
コエロドンタの魔の手から逃れる手段としては、少年より先に見つけて「生体コントロール」を施すしかない。さしあたり、少年が取れそうな木の実に総合栄養剤を打って、コエロドンタ探しを始める。
ぼんたちの前に広大な湖が見つかる。タイムボートを降りて探索しているので、汗ばんだ体を流すのに適当だと思ったぼんは、下着姿でひと泳ぎ。年頃のユメ子は遠慮するのだが、ぼんが泳ぎ疲れて昼寝をしているうちに、自分も制服を脱いで湖の中に入っていく・・。
気持ち良く泳いでいると、クロマニョン人の少年に見つかってしまう。慌てて水から出るが、服が無くなっており、代わりにこの時代の人々が着るような毛皮が置いてあったので、仕方なくそれを着用する。
ユメ子は大声でぼんを呼ぶが、全く返事がない。そして少年から逃げ回っているうちに足を挫いてしまい、走れなくなる。追ってきた少年は自分も独りぼっちだから一緒に来いと誘ってくる。
おぶってもらって、少年が仮住まいとしている洞穴へ。薬草でシップをしてくれた後、少年は仕事に取り掛かる。それは石器時代の主たる仕事道具の石器作りである。
石槍は獲物を捕るためにも、猛獣から身を護るためにも必須な道具。しかし、初めて作ると言うことで、石器作りはあまり捗っていない様子。ユメ子がなぜ群れを追われたのか尋ねると、少年は顔を曇らせる。
その晩、ぼんが寝床に現れる。少年とユメ子が遭遇したのをチャンスと見て、古代の服を本部から取り寄せて、二人の関係を近づける作戦を取ったのだと説明される。
ここで、少年がバンドを追い出された理由が、ユメ子の口を通じて明らかとなる。曰く、
少年がビビったことで獲物が逃げ出してしまったという。そして少年は崖から落ちて大怪我をするのだが、これが冒頭のシーンに繋がっている。なお、ここで言及される「デルプ」が何者かは明らかになっていない。
かくして少年は、獲物を逃がした責任を取らされて、集団から排除されてしまったのだ。たった一度のミスだが、バンドにとって役に立たない人間は不要なのである。
この事情を知ったぼんは、「いつの時代もできの悪い子は苦労するんだなあ」と感想を持つ。現代では勉強、石器時代では狩りとメイン業務は異なるが、落ちこぼれが生きていくのはしんどいことなのだ。
何はともあれ、コエロドンタと対峙するには石槍が必要だ。そこでぼんは本部から情報を取り寄せて近くに黒曜石があることを知ると、ユメ子に圧縮学習で石槍の作り方を会得させて、これを少年に伝達するよう指示を出す。
ユメ子は少年に、圧縮学習で得た極めて理論的な石器の作り方を伝授していく。石器作りについては、良く調べが行き届いている。このあたりの藤子先生の取材力はさすがである。
少年は意外にも石器作りの筋が良く、6日間の特訓で技術を確実に覚えていく。そして誰も手にしたことのないような精巧な石槍を完成させるのであった。
さて、少年がいたバンドでは多くのけが人が出ている様子。悪魔の化身デルプに襲われて、石槍も効かず多くの仲間がやられてしまったらしい。人々の会話から、デルプが二本の角を毛を持つことを知ったぼんは、コエロドンタのことではないかと察する。
一方少年は、デルプの恐怖を語るが、良くできた黒曜石のヤリは鉄より貫通力が強いとユメ子が説明する。この時代に生まれていない鉄を持ち出したのは蛇足であったが・・。
少年は、自分を導いてくれたユメ子に対して、人間ではなく精霊ではないかと尋ねてくる。そして初めてユメ子を見たときのことを語る。
よして恥ずかしいと、言葉を遮られてしまうが、この後は「肌」もしくは「裸」と続いていたに違いない。少年からするとユメ子は、神々しいものに見えたのである。ユメ子の裸のシーンはファンサービスカットであると同時に、物語の中の必然性も込められていたのである。
ついに運命の日。少年はユメ子の制止も効かず、一日も早く獲物を取って母親の元に戻ると言って、狩りに出かけてしまう。
まずその前に「聖なる岩屋」と呼ばれる洞窟に入り、良き精霊から力を得るために祈りを捧げる。洞窟の壁面には獲物の絵が描かれている。きちんと説明されていないが、ここはラスコー洞窟をイメージしたものと考えられる。
ラスコー洞窟は、1940年に少年たちによって発見された南仏の洞窟で、約2万年前のクロマニヨン人たちの手によって描かれた壁画が多数残されていた。馬や羊など、実に500点以上の絵が描かれており、先史時代の美術作品とも言われている。
本作ではラスコーの壁画の描かれた意味を、狩りの前に精霊から力を得るための聖なる場所だという見解を示している。
ぼんは一人コエロドンタを捜索していたが、突然背後から襲われてしまい、間一髪逃げ出す。現れたコエロドンタはとてつもなく巨大で、遠くで見ていた少年が「デルプ」だと言う。
少年は勇気を振り絞り、完成したばかりの黒曜石の槍をデルプに投げつける。すると額の部分に突き刺さる。当たったと喜んだのも束の間、デルプは速度を落とさずに少年の方へと走ってくる。標的にされた少年は腰を抜かしてしまうが、猛進してきたデルプも体が揺れて倒れてしまう。
少年の渾身のヤリが突き刺さった効果が出たのであろうか。それともぼんが光線銃か何かを打ったのだろうか? そのあたりはぼやかした表現となっている。
悪魔のデルプを倒したことがバンドのメンバーも知ることになる。そして村八分の扱いから一転、英雄視されるのであった。
ぼんは思う。少年が狩人として役立たずでも、石器作りの名人としては大事にされるだろうと。めでたし、めでたしだと・・。
現代に帰還するぼん。石器時代の少年はハッピーエンドだが、自分は相変わらずの落ちこぼれ。そんなぼんに、見ず知らずの男子高校生が訪ねてくる。家の前に散らばっていた漫画の原稿はぼんの描いたものかと言うのである。
男は原稿を読み、下手くそだが不思議なギャグのセンスが光っていると感じたと言う。これは今の漫画界にない貴重な素質であるらしい。そしてこの男が会長をしている同人誌の仲間に入って腕を振るってみないかと提案してくるのであった。
ラストは急に降って湧いたようなぼんのマンガの才能が明らかになったわけだが、これは石器時代の少年が石器作りの才能があったことに対応したものとなっている。
すなわち、その時代の本流、現代なら勉強、石器時代なら狩りという分野で落ちこぼれてしまっても、別の分野で才能が開花できれば、それでいいではないかという明確なメッセージが発せられている。
藤子先生も、普通に就職することでは、自分らしさを発揮できない人間であった。それを自覚し、無謀とも思える漫画家への道を突き進み、やがて漫画界において、大いなる才能を発揮することになる。
誰でもどこかに花咲ける場所があるということだ。無闇に落ちこぼれ認定する大人になってはいけないし、目の前のことに落ちこぼれたとしても、他に活躍できる場所があると思うようにしなくれはならない。
石器時代の物語を通じて、人生には、多様な生き方、才覚の発揮させ方があるのだということを描いているのである。
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