元祖YouTuber?『のび太朗 テレビ出えん』/TV局をはじめたよ①
毎年春に第一生命保険が発表している児童・生徒の「大人になったらなりたいもの」のアンケートで、昨年の小学生男子の第二位は「YouTuber/動画投稿者」だった。ちなみに第一位は「会社員」なので、実質一番なりたい職業と言えよう。
こうしたランキング結果が出る度に、動画を作るだけでお金を稼ぐことに対して「それでいいのか?」 という疑問の声が社会的に巻き起こるわけだが、決して子供たちは「お金を楽して稼ぎたい」とか、「儲かるからYouTuberになりたい」と思っているわけではない気がする。
思うに、単純に自分の好きな番組を作りたいと考えているのではないだろうか。自分だけのテレビ局を持って、自分が作った番組を流して、多くの人を楽しませる。それが職業として成り立つということであれば、自分もやってみたいと、そんな感覚だと想像できる。
なぜそのように思ったかというと、子供の夢を叶える天才・藤子F先生の作品では、自分たちのテレビ局(ラジオ局)を作って放送するお話が数多く描かれているからだ。
つまり動画(映像)を作りたい欲求は今に始まったことではなく、たまたま現在はYouTubeがメディアとして全盛なので、そこに子供たちが目を付けているに過ぎなくて、少し前まではテレビに出たかったのだし、テレビ番組を作りたかったのだ。
昔も今も子供たちのやりたいことは、本質的に変わっていないのではないかと僕には思われるのである。
そんなわけで「TV局をはじめたよ」と題して、プライベートなテレビ局を作って放送するお話をいくつか取り上げてみたい。
それらは子供たちの夢を実現するお話であるが、一方で面白い番組を作るには知恵やお金が必要だという現実的な視点も組み込まれているのも特徴的である。本稿ではその代表的な作品を取り上げる。
「ドラミちゃん」『のび太朗 テレビ出えん』
「ドラえもん」『テレビ局をはじめたよ』
「小学館BOOK」1974年2月号/大全集20巻
本作は「ドラえもん」のスピンオフ「ドラミちゃん」の第二話目の作品。初出のタイトルは『のび太朗 テレビ出えん』だが、この「のび太朗」とはドラミちゃんがお世話係を引き受けているのび太の遠い親戚の男の子である。何のことやらわからない方は、以下の記事を先に読んでもらうといいかもです。
冒頭、木鳥からのび太朗に電話があり、「大事件なので急いで家に飛んで来い」と緊急招集がかかる。途中、みよちゃんやカバ田たちも集まってくる。みんなで呼びつけられたようである。
一応補足しておくと、木鳥はスネ夫的なキャラクターで、みよちゃんがしずちゃん、カバ田がジャイアンだと考えてもらっていい。
ちなみに本作はてん虫コミック「ドラえもん」11巻に収録されていて、ここではみよちゃんをしずちゃん、カバ田をジャイアンで描き直しているのだが、木鳥はスネ夫に変わっていない。スネ夫より背が高いキャラクターなので、書き換えができなかったことが理由だとされている。
さらに補足情報として、スネ夫的キャラはもう一人「ズル木」という少年がいて別の「ドラミちゃん」に登場する。
木鳥が皆を集めた理由は、「ジャリっ子歌じまん」というテレビ番組に木鳥が予選を勝ち抜いて出演したので、皆に自慢するためであった。
「しずかに!!よそ見しないで瞬きやめて」
と口うるさく指図した挙句、あんまり羨ましがるな諸君、と火に油を注ぐ発言をして皆を苛立たせる。そして帰り際には、サインが欲しけりゃ遠慮なく、とトドメを刺すのであった。
皆は「ちょこっとテレビに出たくらいで羨ましがるか!」と怒っていたが、のび太朗は家に帰ると歌じまんへの応募葉書を書いて、投函に向かう。すると、テレビに何て出たくないと言っていた皆がポストの前に集合してしまい、バツの悪い空気が流れる。
テレビに出たい・・。そう考えているのび太朗に、ドラミちゃんは東京タワーのミニチュアのようなものをテレビの上に乗せる。ドラミに何か歌ってみてと言われ、不満を言いつつ「メダカの学校」を口ずさむと、大勢の友だちが集まってくる。
皆は口々に「今の番組は何?」「チャンネル変えてもスイッチ切ってものび太朗の顔ばかり映る」と不平不満を述べる。そこでドラミちゃんがネタ明かし。さっきのアンテナを付けると、テレビがテレビカメラと放送局になるのだという。映せる範囲は、近所から全国まで広げることができるらしい。
好きな番組を作って放送できる。そう知ったのび太朗の友だちは「出してえ」と全員詰め寄ってくる。その様子をみたドラミちゃんは、みんながいっぺんに出たらテレビを見る人がいなくなるということで、社長(のび太朗)と番組表を作るので、出る番が来るまで自宅待機するよう要請する。
ということで、急きょ放送局を作ったドラミとのび太朗。さっそく、二人で番組会議を行う。出てきたアイディアは以下のような感じ。。
・歌番組が人気ある
・ドラマをやりたいけど無理か?
・落語や漫才
・クイズ
・ニュースや教育番組
・お母さん向きに料理番組
こういうアイディア出しが一番楽しかったりする。
アイディアも出揃ったので実際に放送を開始する。まずはニュースの時間。・・といってものび太朗が新聞をたどたどしく読むだけで、新聞ならどこのうちにもあると抗議の電話が掛かってくる。
このクレームは確かにその通りで納得がいく。しかしながら今日ではワイドショーでスポーツ新聞をそのまま読むのは日常茶飯事だし、その新聞も芸能人のSNSから引用したりしている。ネットメディアなどは引用だらけだ。本作から50年ほど経ってみて、マスコミの劣化を感じてしまうのは皮肉なものである。
続けて「野比のび太朗ワンマンショー」と題して、のび太朗が歌やかくし芸を披露する番組を始める。・・が、「メダカの学校」を歌い出したところで、のび太朗の顔は見飽きたとクレーム電話がジャンジャンかかってきてしまう。
次はお料理番組の時間。のび太朗のママ、野比のぶ子をテレビの前に連れてきて、夕ご飯のおかずの作り方を聞く。すると何にも知らないママは・・
「作り方なんて別に・・。特売コロッケにお昼の食べ残しのおつゆと、夕べ開けた缶詰・・」
と、手抜き主婦メニューを近所中にご披露してしまう。放送の事実を知って、「早くそれを言いなさい!」と逃げ出していくのぶ子。
予定より早く終わってしまったため、急いで次の出演者をドラミが連れてくる。やってきたのは戸手茂できる君。張り切って歌うと意欲たっぷりだが、彼に求めらたのはその頭脳を活かした「今日の宿題」の解き方であった。
カバ田が「のび太朗とプロレスやろう」と言い出すのを制止したりしていると、「おたく、放送局ですか」とおじさんが訪ねてくる。この人は銭湯松の湯の主人で、スポンサーを名乗り出てきたのである。
一時間1000円のCM料で、番組にコマーシャルを挟んで欲しいというご要望。さっそくドラミがお風呂のセットを部屋に作る。するとそこに、「自分の出番はまだか」とみよちゃんがやってくる。
彼女の希望はバイオリンの独奏だったのだが、のび太朗は「コマーシャルタレントをやらないか」と持ち掛けると、「面白い。やる!やる!」と大乗り気。
ところがCMの内容がお風呂に入って松の湯を宣伝するということだと聞いて逆上。バイオリンをのび太朗にぶつけて、後を追いかけ回す。「乱暴はよせ」と逃げ回るのび太朗がお風呂に飛び込み、「お風呂は松の湯」と提供社名を出すのであった。
このシーンのみよちゃんは、コミックではしずちゃんに書き換えられているので、手放しでの喜びっぷりや暴力的な逆上っぷりが、キャラクター上の違和感のある描写となっている。
次にお菓子屋のおじさんがスポンサーにして欲しいとやってくる。のび太朗が「さも美味しそうに食べて見せます」と答えるだのが、コマーシャルの前におじさんの浪花節を放送して欲しいというオーダーが付いてくる。歌謡ショーの予定だが、スポンサー様には敵わない。
これはスポンサーの意向が番組内容に介入してくるという事態であり、ギャグにはしているものの、公共電波を使った放送を金の力で恣意的に歪めることができるテレビの弱点を突いた鋭い描写である。
下手くそな浪花節が始まる中、のび太朗はCMの練習をしようということで、美味しそうなお菓子の食べ方の研究をする。ところがお菓子が美味しかったばかりに、パクパクと食べ続けてまんじゅう一つを残して全部平らげてしまう。
抗議殺到の浪花節を終わらせて、ようやくCMの時間。既にお腹いっぱいののび太朗は、
「馬井屋のお菓子は・・・とても・・・食べられやしない!! オエ~」
と手に取ったまんじゅうを放り投げてしまう。見事なまでの逆CM。馬井屋の主人は激怒してのび太朗をぶん殴って出て行ってしまうのであった。このくだりは、何回読んでも声に出して笑ってしまう名シーンである。
と、ここまでグダグダと放送を続けていたが、出演を待たされている友だちたちが一挙に押し寄せてくる。各々が歌やピアノやバイオリンを演奏し、カバ田は念願のプロレスを始めてしまう。
収拾不能な状態となったところで、ドラミちゃんは「放送はおしまい!!」と声を荒らげるのであった。
本作はテレビに出たいという子供たちの欲求を背景に、どういう番組があったらいいかという編成会議や、メディアに付きもののスポンサー問題なども絡めた、見所の多い作品となっている。
みよちゃんからお菓子屋の主人まで、自分が見せたい内容(コンテンツ)がありつつ、それをお客が求めていないというズレ。また、誰もが出演できる状態となったときに、視聴者がいなくなるという状況。それらは今のYouTubeを始めとするSNSメディアの世界でも同じことが起こっているような気がする。
改めて本作を熟読した時に浮かんだのは、のび太朗はまるでユーチューバーだな、ということだった。メディアを個人で持てるようになった世界を先んじて描いていたという点で、是非とも本作を再評価してもらいたい。
「ドラえもん」の考察多数しております。
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