息子がヒーローかもしれない?『わが子・スーパーマン』/ヘンテコスーパーマン③
M・ナイト・シャマラン監督作品「アンブレイカブル」(2000)は、自分はもしかしたらスーパーマンでは?と自問自答していくSFで、カルト的人気を誇っていたが、2019年に続編も制作された。
昆布山葵著「同じクラスに何かの主人公がいる」という去年出た小説は、クラスの友人がどうやらヒーローらしいという「モブキャラ」視線で書かれたお話だった。
この二作に共通するのは、ヒーローをメタ的に認知している点にある。「自分がマンガのような超人かも?」「友達がマンガのような主人公かも?」という風な、ある種の客観的な視点が両作にもあって、その点がユニークであると思う。
なぜそんな話から始めたかと言えば、今回記事にする『わが子・スーパーマン』は、いま紹介した二作品と同じように、客観的な視点から見たヒーローものだと考えているからである。
本作は、「幼い息子がスーパーマンかも?」と疑問を抱くパパのお話となっている。先ほどの二作と合わせて列記すると、
自分が超人? → 「アンブレイカブル」
同級生が超人? → 「同じクラスに何かの主人公がいる」
息子が超人? → 「わが子・スーパーマン」
というような類似性が見て取れる。もはや、一大ジャンルと言ってもいいのかもしれない。
『わが子・スーパーマン』「ビックコミック」1972年3月10日号
一人の男の子が走っていく。その後をこっそりと尾行する男。風貌はどことなくのび太のパパに似ている。子供は土管のある空地へと入っていき、そこで姿を消す。
子供を見失った男は、「タダシ~」と名前を呼ぶ。どうやらこの男は、先に走っていった男の子の父親であるようだ。
この父親、あることを思いついてしまってから、それが気がかりで仕方がない。それは息子タダシの行動が、何やら秘密めいているのである。
タダシは空き地で姿を消してから、かなり経って帰宅する。きっかり6時半で、それはタダシが大好きなTV「ウルトラファイター」が放送される時間だ。
ウルトラファイターはマスクを被ったヒーローで、敵のゾンビーと戦っているのだが、話の最後には逃げられてしまう。これが定番らしく、タダシは「また逃がす」といって、悔し涙をこぼす。どうやら、TVと現実の区別がまだできていないようだ。
パパはタダシに「ウルトラファイターは好きかい」と尋ねると、「大好き、僕もウルトラファイターだもん」と無邪気に答える。それは知らなかったとパパも調子を合わせると、タダシは、
「しまった、この秘密は誰にも明かせないんだった」
と言って口をつぐむ。
パパは自らゾンビー役を買って出て、さあかかってこい、と息子に言うと、ダーン、と息子に投げられて、家の壁にめり込んでしまう。これは一体どういうことなのか??
タダシの住む家は夕日台という地域にあるが、ここでは連続通り魔事件が発生していた。既に11人目の犠牲者が出ていて、直近では小池さんがやられている。ヘンテコヒーローものに、小池さんは皆勤賞である。
犯人は子供みたいに小さいが、空中からもの凄い怪力で襲ってくるらしい。会社ではこの連続事件の話題で持ちっきりだが、ある男がこれは突然変異のミュータントの仕業じゃないか、と冗談を言う。ウルトラファイターの中にそのような設定があるらしい。
この話を受けて、パパは早退して家に帰り、以前タダシに買ったウルトラファイターの服が無くなっていることを確認する。疑念は確信へと変わっていく。
ママに対して、重大な問題があると打ち明ける。
「気を確かに持って聞いてくれよ。ウチのタダシはな・・・スーパーマンだ!!」
それを聞いてママは笑い転げる。ま、普通に考えればこのような反応が自然だろう。
悩めるパパだが、そこにサイレンの音が聞こえてくる。また通り魔が出たらしい。そこへタダシが帰宅してくる。何をしてたか聞くと、「いいこと」と多くを語らない。「ウルトラファイターになって悪い人をやっつけたの」、とさらに聞くと、
「さあね、それは言えないなあ」
と笑顔のタダシであった。
通り魔はテレビみたいな恰好をしていたと噂されている。パパは以前タダシを見失った空地に行くと、土管の中からウルトラファイターの衣装一式が見つかる。これは決定的な証拠となるのか?
翌日、パパは通り魔事件の犯人をミュータントの仕業だとしていた男を呼び出して、「仮に自分の息子がミュータントだったらどうするか」と尋ねる。するとその男は、
「締めちゃうよ。相手は怪物だよ。そんなの育てるなんて、人間への裏切りだ」
その後議論があって、さらに付け加える。
「(正義の味方と言っても)そんなものはどこまでいっても個人の正義にすぎん。いつかどこかで社会と対立するもんだ。結局早いとこ締めちゃうより手がないってことさ」
「貴様それでも親か」とパパは切れる。
本作の核心がここでさらりと語られている。『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』(USD)でも語られたが、個人が正義/悪を判断することで、その基準が専ら恣意的になっていく。それは非常に危険極まりない行為だ。
USDでは正義感の暴走が善悪の判断を歪めていたが、本作では子供から見た狭い了見によって善悪が決められている。これは、正義なんてものは、個人個人で異なるものであって、絶対的なものではない、という藤子F哲学に沿ったテーマと言えるだろう。
パパは帰宅後、タダシを問い詰める。通り魔事件が起きた日は、全てタダシがどこかへ行った日である。何かこれに関係しているのか、と。
さらにパパは、タダシに誘導尋問していく。「通り魔は悪い奴である、何も罪もない人間を傷つけるから」と。タダシはそこでようやく答える「やられたのは悪者たちだ。だからウルトラファイターが来たのだ」と。
「悪いこととは何をしたのか?」 これをパパが尋ねると、子猫を捨てた、駅のホームで割り込んだ、とあくまでマナー違反に留まるレベルの罪を挙げるタダシ。子供から見た善悪の基準なんてものは、このようなものだ。
タダシはゾンビーの隠れ家を見つけたので、「明日殺しに行く」と言い出す。ゾンビー役の役者の居場所を近所の人から聞き出していたのである。
それを聞いたパパは、「スーパーマンごっこなんてやめろ」と叱るのだが、タダシは「パパにゾンビーが化けている」と半ば正気を失って、ベッドを持ち上げてパパへと投げ飛ばす。善悪の判断どころか、現実とテレビ番組の境目すら分かっていないのである。
何とか逃げ出したパパだが、タダシはウルトラファイターに変身して、ゾンビー役の家へと飛んでいく。窓を突き破って中に入ると、ゾンビー役の男が、タバコに火をつけるタイミングであった。
ドドーッ
と家が大爆発する。
翌日の報道によると、ガス漏れしていたところにタバコの火が引火したことによる爆発であったようだ。これは偶然だったのか?
朝刊には「たまたま居合わせたファンの少年は無事」と書かれている。これはタダシのことで、医者によれば奇跡としか思えないことらしい。
「まるで不死身のスーパーマンみたいですって」とママは喜んで、ヒーロー遊びに興じるタダシを見守る。その傍らでパパは、恐ろしいものを見る目で、その様子を見ているのだった。
この少年が、善悪の基準を大いに学び、「パーマン」のような押し忍ぶ人間になるのか、自己中心的な度合いを強めて「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」となるのか、将来を案じてみようではないか。
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