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【ネタバレ有】映画ドラえもん「のび太と空の理想郷(ユートピア)」大感想戦

ついに公開となった映画ドラえもん42作目「のび太と空の理想郷(ユートピア)」。オリジナルとしては実に3年ぶりのタイトルで、久しぶりに「新作」が公開された印象を持つ。

公開2日目の土曜日に、小2の息子を連れて、さっそく鑑賞してきた。本作は売れっ子脚本家の古沢良太が手掛けた作品ということで、期待を大いに膨らませて臨んだが、その期待を上回る素晴らしい作品であった。

まだ一回しか見ていないので、あやふやな部分も残っているが、できる限り本作の見所やテーマなどについて、語ってみたいと思う。




ネタバレ有で行きます!



本作のテーマは「理想郷=ユートピア」

勉強に運動、何をやってもダメなのび太は、そこに行けばテストも争いもなく誰もがパーフェクトになれる場所=ユートピアに憧れる。物語の序盤は、そうしたのび太の理想郷を探したいという強い欲望がお話を牽引していく。


ユートピア伝説をのび太に紹介するのは、大長編の解説役・出木杉君。博覧強記な出木杉は、大長編において一緒に冒険に出ることは一度もないが、序盤で物語の核となる部分のウンチクを披露してくれる便利なキャラクターである。

代表的なところだと『大魔境』の「ヘビー・スモーカーズ・フォレスト」や『魔界大冒険』の魔法と科学の関係などを丁寧に説明してくれていた。


出木杉はまずトマス・モアの「ユートピア」を簡単に紹介しているが、ここでは若干の補足をしておこう。

トマス・モアは16世紀に活躍したイングランドの思想家で、大法官まで上り詰めた官僚でもある。やがてヘンリー8世と対立するようになり、最期は反逆罪で処刑されてしまう。

「ユートピア」とはモアの考えた造語で、「どこにでもない場所」という意味があるという。ユートピアは三日月型の島を形作っていて、遠目には新月のように見える。島には54の町があり、それぞれ6000戸の家が建っている。

本作の空に浮かぶ楽園パラダピアは、モアが描いたユートピアをそのまま空に浮かべたような造形となっている。

モアの「ユートピア」では、住民たちには自由・平等が与えられている。当時としては画期的な共産主義的な世界観となっている。ただし、確かに争いもない理想的な社会ではあるが、本当にそんな社会が成立しうるのか、という批判は当時から投げかけられていたようである。

モアの執筆意図については様々な憶測や解釈があったようだが、「どこにでもない場所」という命名から勝手に想像するに、現実的には存在しえないことを前提に、もしユートピアが存在するとしたら・・・という思考実験の果てに創造した世界なのではないかと思う。

いきなりこの映画のテーマにも関わってくる話だが、「誰もが平等」という考え方を裏返すと、「誰もが同じ能力を持つ」「誰もが同じ考えを持つ」という、無個性な、悪平等の考え方も引き出せる。

モアはそうした理想郷の表の顔を裏の顔を提示したかったのではないかと考えてします。


今回の映画はのび太がユートピアを探す話だが、実際にユートピアに辿り着いた時に、そこは自分の思い描いていた理想とはかけ離れた社会であることを知る。つまり本作は、のび太がユートピアとは何なのかを、自分の頭で導き出す旅だと言えるのである。


さて、出木杉は世界各地に伝承する「理想郷伝説」をざっと5つ紹介している。補足も含めて、記載しておこう。

①トゥーレ
北欧神話などに登場するヨーロッパの北に位置するとされる伝説の島。「ジパング」などもそうだが、世界の果てには楽園が存在すると言う考え方は、世界中に存在している。

②アトランティス
大西洋に沈んだとされる海洋国家。太平洋にもムー大陸の伝説が残っているが、それほどに海は神秘的だったのかもしれない。アトランティスとムーと言えば、ドラ的には「海底鬼岩城」であるが、本作ははまだリメイクされていない。

③竜宮城
海底に理想郷があるという考え方も世界各地にあるようだが、日本では竜宮城がそれにあたるかもしれない。ドラ世界では『竜宮城の8日間』において、海底に時間の流れが異なる世界が存在している。

④桃源郷
中国伝承のユートピアと言えば桃源郷ということになろう。山深い中国では、険しい山脈を超えた先に理想郷があると考えても不思議ではない。

⑤マゴニア
ヨーロッパなどに伝わる伝説の浮遊大陸。マゴニアからは飛行船が飛び立ち、世界中を巡っていると考えられた。「ガリバー旅行記」のラピュータなどにも繋がる伝承だと言われている。このマゴニアが本作における空に浮かぶ理想郷のイメージに繋がっているものと考えられる。


出木杉に理想郷伝説を聞いたのび太は、この世界のどこかにユートピアがあるはずと考える。この考えは、当然仲間たちには相手にされず、落ち込んで学校の裏山で寝転がっていると、突然謎の物体が空高くに姿を現す。のび太は三日月型の浮遊物を見て、あれがモアの描いた理想郷ではないかと直感する。

三日月の巨大物体はすぐに姿は消えてしまうが、浮遊物から謎の物体が落ちてくる。それはてんとう虫のような変な虫。のび太がそれを放り投げてしまう。何やら奇妙なシーンである。

「映画ドラえもん」では、序盤の不思議シーンが、ラストで生きる伏線として描かれることが多く、本作でも、落ちてくる虫だったり、雲一つない晴天での雨がそれに当たる。


のび太がドラえもんに「理想郷は空に浮かんでいるのでは」と考えを伝えると、最初はバカにするのだが、「タイム新聞」という22世紀以前の新聞記事を検索できる電子版新聞で調べてみると、あらゆる年代と場所に三日月型の飛行物体の目撃情報が記載されている。

これらをしらみつぶしに調べたらどうかと、うまくのび太に誘導させられ、ドラえもんが月賦で中古の飛行船を買うことになる。それが飛行船「タイムツェッペリン」号である。

「タイムツェッペリン」については、一度、映画の特報考察の記事の中で詳しく書いているので、こちらをどうぞ参照願いたい。


さて、本作の序盤で忘れてはいけないのは、新しいひみつ道具「四次元ゴミ袋」である。四次元と言いつつなぜか容量は決まっているようだが、この袋を通じて四次元空間にゴミを入れておけるという。

なお、「四次元ゴミ袋」にのび太は0点のテストを入れていたが、これはラストで中身が溢れ出ることを示唆するシーンとなっている。「竜と騎士」などでも地下社会に置いてきた0点の答案は戻されていたが、大長編では0点の答案は必ずのび太の手元に帰るのが定番となっている。


また、ドラえもんは調子の悪くなった「どこでもドア」などをリサイクルするために「四次元ゴミ袋」に入れていたが、実はこれは非常に大事なポイントを含んでいる。というのも、ごく自然な形で「どこでもドア」が使用不可であることを伝えているからだ。

「大長編ドラえもん」において、物語をドラマティクにするためには、実はドラえもんの便利なひみつ道具は、邪魔な存在だったりする。あまりに便利さがゆえに、のび太たちの困難を簡単に解決してしまうことが可能となってしまうからだ。

よって、脚本上でひみつ道具の使用を制限する仕掛けを施すのがパターンとなっている。

例えば「恐竜」ではタイムマシンは早々に壊れるし、タケコプターはバッテリーで動くという設定が与えられ、行動制限がかかっている。「大魔境」ではジャイアンが冒険に必要ないと言って、「どこでもドア」などの便利グッズを空き地に置いていってしまう。

「ブリキの迷宮」ではドラえもんがぶっ壊れてしまうという強引な展開があったし、「日本誕生」ではドラえもんより進んだ未来人の登場により、ドラえもんの活躍を制限させている。

こうした物語上の冒険を困難に見せるために、本作においては、便利なひみつ道具がリサイクルに出されて手元にないという描写を序盤に組み込んでいるのである。


その一方で本作では「大長編」での定番アイテムも積極的に登場させている。「グルメテーブルかけ」「通りぬけフープ」「とうめいマント」「ひらりマント」などである。このあたりの目配せも、本作は行き届いている。

本作オリジナルのひみつ道具としては、飛行船を届けてくれた配達ロボットがオマケでくれた「インスタントひこうきセット」が抜群のアイディアだった。

大長編(特にオリジナルもの)では、のび太たちがお揃いのユニフォームを着るのが定番なのだが、本作ではミニ飛行機付きの飛行服を着用し、これによって空気の薄い上空でも大丈夫という設定を与えている。


さて、なんやかんやの後、ユートピアを見つけたのび太たちだったが、まさかのユートピア側から攻撃を受けてしまい、タイムツェッペリン号もろともやられてしまう。

これは異世界に飛び込んでいく際に、まずは異世界の住人に警戒されてしまうという大長編定番の流れに沿った展開となっている。「海底鬼岩城」「竜と騎士」「雲の王国」などが代表例である。


ユートピア=パラダピアに到着するのび太たち。以後は基本的にこのパラダピアのみでお話が展開していく。大長編では移動する冒険を描く中盤から、目的地に到着し、敵との対決を描く終盤に移行するのが一つの構成上のパターンであり、本作もそれに倣った形となっている。

ただし、本作では、中盤の冒険の部分があっさりと終わってしまう印象で、「宝島」「翼の勇者たち」などに通じる呆気なさを感じたのも事実。僕としては、もう少し冒険が長い方が好みで、例えばイヌの国に向かうまでの冒険と、イヌの世界での戦いをバランス良く描く「大魔境」が理想形だと考えている。


パラダピアは、おそらく「パラダイス」と「ユートピア」を組み合わせた造語であろう。今回のメインゲストキャラとなるソーニャが、ここでようやく登場。ソーニャの命名理由は思い浮かばないので、誰かわかる方がいたら教えて欲しい。

ソーニャはパーフェクトネコ型ロボットということで、不完全なロボットであるドラえもんの対になる存在である。不出来なのび太と、のび太の合わせ鏡となっているパラダピアに住む子供たちと同じ関係である。

パラダピアは三賢人と呼ばれる人々が作り上げた島だとされる。三賢人の名前はポーリー、サイ、カルチだが、これはそれぞれポリティックス(政治)、サイエンス(科学)、カルチャー(文化)から取られている。

それらは、役割が最初に決まってから命名されたようなとても人工的な名前であり、最終的にはやはり人工的なロボットのようなものだったと最後で明かされる。


また、パラダピアで生活するにあたり、最も大事な存在は、クリオネラというクリオネ型のお世話ロボットたちである。

実は、トーマス・モアの「ユートピア」では、住民が理想的な生活をするために、彼らを影で支えている奴隷の存在があった。クリオネアは、モアのユートピアにおける奴隷の役割をさせるために、古沢さんが考案したものと思われる。

今の世界では奴隷こそいないことになっているが、ブラックな仕事に従事する、社会の底辺で報いが少ない中で働く人たちがいる。理想郷を作り上げるためには、クリオネアのような生活サポートをしてくれる役割が必須であり、それは逆説的に理想郷が存在しえない証左でもある。


パラダピアは空中に浮かぶ島なので、太陽との距離が近く、常に有害な紫外線を浴びてしまう。よって、住民たちを守るために島全体をバリヤーで囲み、その中で「パラダピアンライト」と呼ばれる人口太陽を灯して、これによって快適な暮らしが保証されている。

エネルギー源は、夜中に地球に降り注ぐ宇宙線を取り込んでパワーに変換するという仕組み。

科学的に本当にそんなことが可能なのかは不明だが、疑似科学としてきちんと合理的風な説明を加えることで、なるべく荒唐無稽だと思わせないようにしている。これは藤子作品では絶対必須の創作法であり、本作は藤子先生の方法論をしっかりと継いだお話となっている。お見事。

パラダピアでの生活風景もしっかり考えられており、酪農や農業に立脚している点が、ラストで牛を救うという感動的なシーンにも繋げている。また、学園では算数体育(だったかな?)の授業が行われており、体を動かしながら計算能力も高めようと言う一石二鳥の科目が描かれる。

こうした本作の細部の設定が、いかにも藤子ワールドという気がして嬉しくなる。


しばらく学園生活を続けていくと、しずちゃんやスネ夫、ジャイアンはどんどんとパラダピアでの生活に馴染んでいき、パーフェクトな性格・態度を身につけていく。

しかし、のび太だけはちっとも成長できず、皆に置いていかれる落ちこぼれの存在であり続ける。成長を止めているのび太から見ると、優しく頼もしくなっていくジャイアンたちが羨ましくなる一方で、それは個性が失われていくようにも思えてくる


ここからは、パーフェクトとは何か、という問いが浮き彫りになっていく。

皆が一様な存在となっていく世界は、果たして本当にパラダイスなのか。意地悪だったり、我がままだったり、頑固な性格は、確かに場合によっては人と人がぶつかる理由になりえる。けれど、その分良いところもあるのではないか。

個性があるから、互いの感情が現出し、喜怒哀楽が生まれるのではないか。逆に言えば、喜怒哀楽のない世界が理想郷と呼べるのだろうか。

このあたりのパラダイス論は、子供たちに向けてと同時に、引率者である大人たちにも突き付けてくる。本作では、説教臭くなる寸前のメッセージ性を込めており、そのバランス感覚がまことに素晴らしい。


本作では、後半においても、魅力的なキャラクターを惜しげもなく投入している。実はパラダピアは三賢者の言うことを聞く人たちを作り上げる世界であると見破ったハンナや、賞金稼ぎのマリンバ、マッドサイエンティストのレイ博士などである。

特にレイ博士は、自分にとってのユートピアを作り上げようとする科学者で、全くパーフェクトな人物として描かれておらず、とても印象深い。

作中でもレイ博士が言うように、彼は子供の頃から落ちこぼれた存在で、そのルサンチマンから、パラダピアを作り上げた。レイはのび太が間違って成長した姿という裏設定を感じさせる。


パラダピアが崩壊し、住民たちの救出作戦が始まる。ここで前半で謎めいていた描写が、ラストの大活劇の裏側で起こっていたことだったと明らかになる。

四次元ゴミ袋に崩壊したパラダピアを入れて事なきを得たと思いきや、発熱が止まらずに、このままでは爆発してしまうという最悪な展開となる。

ここで献身的な行動を取るのが、パーフェクトではなくなったネコ型ロボットのソーニャである。

ソーニャはドラえもんと同じく、最初は不完全なロボットだった。しかし、三賢者の改造によって自分たちの言うことを聞く「パーフェクト」なロボットになっていた。

ソーニャはのび太とドラえもんを見て、パーフェクトが必ずしも正しいことではないと気がつく。そしてロボットながら、人間性を取り戻し、最後は自分が爆発することを引き換えに、世界を救うのである。

ソーニャのように、ラストで身を挺して世界を救う存在は、「大長編ドラえもん」にはしばしば登場する。「海底鬼岩城」のバギーや、「鉄人兵団」のリルルなどである。

結果的にソーニャの電子頭脳は回収できて、これにより未来の世界でソーニャが復活することが示唆され、実際にエンディングロールで復活したソーニャが描かれる。献身後に復活を遂げるさまは、リルルのそれを彷彿とさせる。


さて、最後に、本作最大の疑問点について語っておきたい。

それは、のび太はなぜ、レイ博士の言いなりとなる人口太陽を浴びていながら、一人だけ「パーフェクト小学生」にならなかったのだろうか、ということだ。

それは、のび太にはドラえもんがいたからではないかと考えている。

ドラえもんはロボットなので、ソーニャのように改造するしかパーフェクトな存在になれない。よってパラダピアにいても、何も変わらない存在であり続けている。

のび太はパラダピアでも、そんないつも通りのドラえもんと、いつものように喧嘩をしたり、楽しく笑ったりして、ずっと人間らしい生活を続けていた。

喧嘩をしたり、喜びあったりするためには、感情が必要なわけで、喜怒哀楽を奪う人口太陽の光線が、いつまでものび太には利かなかったのは、感情を動かしてくれるドラえもんが傍にいたからなのではないだろうか。

そしてのび太とドラえもんの友情が固いままだったからこそ、彼らの掛け声に応えて、しずちゃんやジャイアン、スネ夫は感情を取り戻す。彼らもまた、感情をぶつけ合って、友情を誓い合う仲間だったのだ。

ドラえもんとのび太の友情、そして仲間たちとの友情。それは理想郷ではない世界でしか生み出せないものなのだ。そう思うと、思わず涙がこぼれてくるラストとなっている。


さて、だいぶ長文になってしまったので、ひとまず「感想戦」はここで中入りとしたい。

おそらくは二度三度見ることになる作品だろうし、それに耐えうる素晴らしい出来栄えであったと思う。大満足だったとひと言添えて、本稿を終えたい。



と、ここでいきなり追記。

ポストクレジットについて一言。毎年、エンドクレジットが終わった後、来年の公開決定ということで、ほんの少しだけ映像が流れるのがドラ映画の恒例となっている。

今回はおもちゃやぬいぐるみの演奏者を集めて、オーケストラを指揮するドラえもんの姿が描かれていた。次回作が音楽がテーマとなることはほぼ間違いないが、僕としては演者となっているおもちゃたちに注目したい。

これはズバリ、ブリキのおもちゃたちなのではないだろうか。ブリキと言えば大長編第14弾の「のび太とブリキの迷宮(ラビリンス)」が思い浮かぶが、この話をリメイクするのではなく、おもちゃの世界というベースを使って、音楽が重要なカギとなる世界を描くものと想像できる。

なので現段階では、来年のドラえもんは「のび太とブリキの交響楽団(オーケストラ)」というタイトルを予測しておきたい。



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