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藤子F先生の若者へのメッセージ!『考える足』/シリーズ・考える①

17世紀フランス。ヴェルサイユ宮殿が建造されたフランスの輝かしい世紀に活動した思想家・哲学者のパスカルは、遺稿書「パンセ」の中に有名な一句を残した。

『人間は自然のなかでもっとも弱い一本の葦にすぎない。だが、それは考える葦である』

自然界において人間は最も弱いというのは納得いかないが、人間だけが「考える」ことのできる崇高な存在であることは大いに認めるところだ。

これは考えない人間はただの一茎の葦にすぎないとも読め、「思考」の重要さを訴える一節であると言える。


さて今回は、「シリーズ・考える」と題して、柄にもなく考えてしまったキャラクターに迫ろうという企画である。全二回。無理やりシリーズ化するほど関係性のある二本ではないが、せっかくなので「考える」とはどういうことかを頭を巡らしながら読みたい作品である。


『考える足』「マンガ少年」1977年6月号

まず本稿では、爽やかな読後感が印象的な青春SF短編『考える足』を検証する。タイトルは当然「考える葦→足」というダジャレである。

本作に限らずF作品はダジャレだらけで、例えばドラえもんの道具を眺めても「アドベン茶(アドベンチャー)」「もしもボックス(もしもしボックス)」「コウモリ傘」など、大体ダジャレである。(←それは大げさ)

短編でも『ノスタル爺』『テレパ椎』など、ダジャレを思い浮かべてから物語を作っていったと思しきタイトルもある。


本作はそうしたダジャレと、「神経球」というステゴサウルスなどの恐竜に備わっていた第二の脳と呼ばれる器官の存在を組み合わせて、物語を構築している。

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主人公は中学生の英才(ひでとし)。「ドラえもん」の出木杉君の名前と一緒である(時系列では出木杉が後に登場)。こちらの英才は、代々学者の家系のようだが、勉強があまりできない

母親が勉強しろとうるさいが、英才は机に向かうのではなく、野球をしてグラウンドを走り回る方が得意のようだ。動物好きでもあるので大学に進んで勉強するのではなく、ブラジルかどこかで牧場をやりたいという壮大な夢を描いている。

英才は自分の脳細胞が先天的に足りないと自覚しているが、これは後に「足」が考え出す伏線となっている。頭と足の二か所に脳細胞が分裂してしまったので勉強ができないという設定なのだ。

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もう一人の重要な登場人物が、家庭教師として雇われる大山大五郎である。医学部の三年生で、体格が良く、柔道三段・空手初段の武道家でもある。母親は大山の武術の腕前を見こんで「ビシバシ」鍛えて欲しいと願っているが、大山はいかにも温厚そうな風貌である。

最初は大きな体格の方に目が向かうのだが、実は医学部の秀才という点は見逃せない。医者の卵なので、不可思議な「足」を目撃してもきちんと科学的に状況を掴むことができる。そして「足」とも理路整然とした対話もできる男だ。

この大五郎の聡明さが、本作をとても気持ちの良い物語に仕立て上げている。


英才は牧場をやりたいほどの動物好きなのだが、その様子は前半の飼い犬トップとのやり取りから窺い知ることができる。

トップは友達のように一緒に野球に行き、英才の野球道具やユニフォームを犬小屋に匿ってくれる。後にそれらが母親に見つかってしまい、叱られて塞ぎ込む様子もなんとも人間くさい愛犬である。


扉を除いて30ページのお話だが、「何か変かも」という前半(起承)に15ページ、「変なのはもはや勘違いではない」という後半(転結)に15ページと、きっかり二分された構成を取っている。

それでは本作の「足」の動きを追ってみる。前半(起承)15ページまで。

3ページ:足がピタリと一瞬止まる
6ページ:部屋で寝転がっていると足がピクピクして、目が覚めると机の上に足を投げ出して寝ていた
8ページ:足の裏がムズムズし、見るとウオノメでもイボでもない違和感が残る

ここまでが、何かが起こりそう、という段階である。

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続けて物語中盤。

15ページ:足が自分を蹴り飛ばしてきて気絶してしまう
16ページ:足が失神している英才の体を引きずって動き出す。靴下を器用に足だけで脱ぐと足の裏に「目」が現れる。ジャーンの文字付き。
17ページ:翌日放課後、野球に誘われて行こうとするが、足が勝手に逆方向へと走り出す

ついにここで「足」が姿を現す。「転」のシークエンスとなる。

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「結」に進む前に、英才の進路問題に一つの方向性が示される。急きょ泊まることになった家庭教師の大山と語り合うシーンがそれである。

大山は、英才に全力で取り組ませた問題集の答え合わせをする。大山は明るく「これではどう頑張っても一流大学は無理だ」と結論づける。英才は率直な物言いには気分を害するが、それに対して大山がとても良いことを言うので、ここに抜粋しておきたい。

「無理なら無理でいいじゃないか。進む道は、他にもいっぱいあるさ。頭を使うから偉いってもんじゃない。手を使おうが足を使おうが、一つの仕事を立派にやり遂げれば、その人は一流なんだ」

本作が描かれた1970年代後半は「受験地獄」という言葉が生み出された時代。誰も彼もが「学歴」を目指していた。そんな時に、マンガ家一筋の藤子先生は人間の価値はそこではないと、大山のセリフを借りて語っているのである。

大山は学歴に囚われない道を進めとアドバイスし、英才は自分の代わりに母親にその旨伝えてほしいと要望。大山はそれを快諾するのであった。

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さてその夜、大山と一緒の部屋で寝ている英才。外では雨が降り出し、稲光が光る。すると英才の足の目が不気味に見開いて、体を引きずるようにして動き出す。稲光を使った演出は、藤子先生のちょっとした得意技で、物語の緊張感を高める時に使われる手法である。

足に体を引きずられ階段から落っこちて英才は目が覚める。「勝手な行動は許さん」と自分の足を捕まえると、足がついに喋りだす。

「放せ! もう、お前に自由にはならない。お前のようなパッとしない男の下についているのは、もうたくさんだ。俺は独立するのだ!!」

まさかの、足の裏による独立宣言である。


そして台所へ体を移動させ、包丁で足を切ろうとしてくるが、それを何とか食い止めようと英才が抵抗する。騒ぎに気がついた大山がやってきて、二人(?)を仲裁。空手や柔道なども駆使して、英才をボロボロにしながらも何とか足を縛り上げる。

賢い大山は、足の裏をみて脳みそ第二号だと見抜く。「無理な詰め込み勉強が良くなかったのか」と推察しているが、これはこの頃の詰め込み教育をチクリと批判するセリフと見て取れる。


足は「自分と体を切って離せ」と騒ぎ立てるが、ここでも賢い大山は、足は独立したら生きてはいけないことを医学的に指摘する。すると足の目はどういう仕組みかわからないが、大粒の涙を流して号泣する。

「ウワァ~ すると俺は一生、この薄らバカの下働きで終わるのか」

クチの悪い足なのである。

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ここで考えてみると「足」も人生に惑う一人であることがわかる。足は体を支えるものだが、そういう人生を歩みたくないというのである。大学に行きたくないという英才と同じなのだ。

そんな自立心の強い足に対して、大山は説得を続ける。

「君、付いている位置が下だからって、下働きという考え方はないよ。どれが上等とか下等とかという区別は全く意味がない」

つくづく大山はフェアに物事を捉えることのできる人間である。こうした気持ちの良い人物は、本当に好感が持てる。かくありたいものである。


大山は足とサシで語り合い(その間英才は上半身だけ部屋の外に出ている)、いくつかの条約を守れば協力して生きていこうと話がついた模様である。「友好のための条約」ということで全6条。条文はここでは割愛するが、要するに足を独立した人格として認めることが骨子である。

英才は足に対して「僕は大学に行かないぞ」と宣言するが、足は「その辺の判断は君に一任する」と理性的な判断を下す。ホッとする英才。これで足とは仲良くやっていけそうだ。

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そして最後の残された課題。それは大学を目指さないということを、英才の母親に伝えることである。大山は、足に対して説得したように、母親にも理解させることはできるのだろうか…?

物語は、その結論を得る前に終了となる。


総じて考えてみると、本作はタイトルから示唆されている通りに「若者よ、考えろ」というメッセージが込められているように思える。

「勉強して大学目指せ」「下の者は下働き」といった固定観念に凝り固まるなと、助言をしている作品なのではないだろうか。僕には理知的な男・大山の言葉は、F先生の言葉そのもののように思えてならない。

人間は考える葦である。足も考える葦である。そんなお話だと総括して、本稿を終えたい。


F作品のSF短編、たくさん考察しています。


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