アルジャーノン・プロジェクト (続 いのちのやくそく)
はじめに
ここでは「いのちのやくそく」の続編として、2016年の出版当時には載せられなかった内容を書いています。
ぜひ「いのちのやくそく」もお読みください。
https://www.amazon.co.jp/dp/4908586012/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_3C35S9RK730SQG3ATC9J
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スピリチュアル・ミッドワイフを学んで
どこから話せばいいのだろう。
2008年頃に、カリフォルニア州にあるBPI(バークレー・サイキック・インスティチュート)という超能力養成学校で、スピリチュアル・ミッドワイフという勉強した。
それがどのような学びなのかと説明しようにも、日本語に当てはまる言葉がない。それどころが、英語で説明しようとしても難しい。
日本語に直訳すると、「精神的な助産師」という意味になる。
実際にクラスを教えている人は助産師の資格を持っていた。だから助産師の仕事を精神的な面から教えるというクラスだと言えばそうなんだろう。
クラスでは、瞑想をしながら妊婦さんに向き合い、オーラの中にある情報、特に親子の関係性を読み解いていった。驚くべき事に、読み取っていくだけで、オーラの中にある情報が上書きされていくのだろうか、次々とオーラが変化していった。
そして親子関係が精神面から変化することで、出産が思いのほか楽になったり、出産後の親子関係が良好になったりと、それまで僕が持っていた常識を覆すような出来事に何度も出会った。
1年間のこのクラスを修了した時には、「助産師の資格も取った方がいいよ」と言われたが、その頃の僕は精神面のことしか興味がなかったので、資格を取って実践的に活動することはしなくてもいいかなと考えていた。
2010年頃に日本に帰国して、大阪で瞑想教室を始めて、スピリチュアル・ミッドワイフの資格を活かした出産のお手伝いもしたいと思っていたのだけど、そうそう海のものとか山のものとか解らない人に仕事を依頼する人はいなかった。
どうしたものかと悩んでいた時に、「発達障がいの子どもに関わった方が良い」と言ってくださる知人がいた。
僕が学んだ事は、そのような子どもたちへの治療やカウンセリングでは無かったけど、「何らかの応用がきくかも知れない。何か出来ないものか」と、とにかく関わってみることにした。
そうは言っても、知り合いにそのような親子は居なかったので、知人からある親子を紹介してもらった。その子どもがSちゃんだった。
Sちゃんについて
「私が死んだら、この子はどうなるのかしら」
初めてSちゃんのお母さんからお話を聞いた時、彼女は心配そうに我が子への思いを口にした。
きっと彼女の頭の中では、Sちゃんの将来の姿がすでにイメージされていたのだろう。
部外者で、この親子に数回しか会ったことがない僕にとって、そんなお母さんの言葉は重かった。
僕はこの親子に、多分ほんの数回しか会わない。
そんな僕は、この親子にとっては急行列車からぼんやりと眺めては通りすぎていく無人駅に立つ待ち人のようなもので、印象に残らない存在になるかも知れない。
きっとこのお母さんは僕に会った後、何事も無かったようにSちゃんの学校生活を心配して、気苦労が絶えないまた同じ生活に戻るのかもしれない。
あの時は、そんなことを思っていた。
僕がSちゃんに初めて会った時、彼女は3歳ぐらいだった。
やっと単語を口に出しているという感じで、文章にもなってなくて、何が言いたいのか解らなかった。
「子どもだから、そんなふうに発達が遅い子もいる」
そうは思っても、手足の動かし方がぎこちなかったり、目の焦点があってなかったり、歩くとすぐ転びそうになったりと発達障がいなのか自閉症かと思ってしまう程だった。
お母さんは、すぐに子どもの様子が他の子と違うのに気がついて、いろいろな事を試したり、良い幼児教室があると聞けば連れて行ったりしていた。
それまで諦めがちだったお母さん、そしてSちゃんと僕の3人で一緒に瞑想をした。
この親子が抱えている心配事、そしてその原因となる家族の抱えている問題、そして親類縁者、先祖などと少しずつ範囲を広げながら、こころの中で思い浮かばせていく。
「自分だったらどうするのか?」
なんとなく浮かんでくる思いを、そんなふうに自分自身に置き換えて思ってみる。
頭で考えるのでは無く、思いを浮かび上がらせる。
そうして自分に問いかけていくと、こころの中の余計な物事が手放されて落ちていく。
注意すべきは、思いの強さに飲み込まれないという事だ。
「何も心配する事はない。ただ運命の流れに身を任せて。抱えている全てを落としていく」
そんなふうに自分に言い聞かせて、心の深いところに集中していくと、自分自身が清められていくような気がする。
きっとお母さんが小さい頃、彼女のお母さんは、彼女の将来を同じように心配していた。その思いが、彼女を窮屈に感じさせていたのかも知れない。
そしてSちゃんも、お母さんから知らない間に同じような思いを受け継いで、ストレスになって身体や頭を萎縮させているのかも知れない。
そんな浮かび上がってくる様々な思いを、自分の問題のように思う。
「そんなストレスは、もう抱えなくて良い。
自分の人生は、自分で決める。
誰かの思いでがんじがらめになって、人の人生を生きなくても良い」
そう、こころの深いところに問いかけて話しをする。
そして、「自分がどう生きたいのか?」という事に集中して、必要ない思いやストレスを手放す。
そしてSちゃんにも思いを広げると、彼女を萎縮させていた思いも落ちて、少しずつ楽になっていく。
そして「意識」が明確になっていく。
お母さんからの手紙
後日、Sちゃんのお母さんからメールを頂いた。
初日にヒーリングした日から、Sちゃんは変化していったそうだ。
「別人みたいに変わって、嬉しくて、嬉しくて。
言葉の数、歩き方、目線、仕草、等々。同じ子供なの?
まるで内側に潜んでいたものが一気に出てくるようでした。
知人、友人からも「急に変わった」と言われるようになりました。
以前は、強迫観念や、『何とかしなくちゃ、でも何をしていいのか解らない』という気持ちが常にありました。他の子と比べてはいけないのに、比べてしまう自分がいました。
それが、不思議なことってあるのです。私は今まで目に見えない世界の事は関心はありましたが、いざ自分のこととなると否定的で見ないようにしてきたように思います。
今まで諦めなくてよかった。感謝の気持ちでいっぱいです。」
アルジャーノン・プロジェクトについて
「アルジャーノン・プロジェクト」というのは、「発達が気になる子どもたち」とその親御さんたちへのヒーリング・プロジェクトのことだ。
一番最初にSちゃんのヒーリングしてから、その後、岡山県の友人が主催する「親の会」という、軽度の発達障がいの子どもたちと、その親御さんたちの会に関わらせてもらうようになった。そして家族のための「瞑想」の指導もするようになっていった。
そして静岡県や日本各地、カリフォルニアなどで、発達障がい、自閉用、ダウン症、遺伝子の突然変異など、たくさんの子どもや親御さんたちと関わるようになり、それから妊婦さんのための瞑想指導などもするようになっていった。
「アルジャーノン・プロジェクト」の名前の由来は、故ダニエル・キース著の「アルジャーノンに花束を」という本の中に出てくるネズミの名前だ。
アルジャーノンと知的障害があった主人公のチャーリーは、脳外科手術を受けて、頭が良くなる。
しかしこころの成長を伴わないため、小さい頃の心の傷やストレスが処理出来なく、やがて精神状態や人間関係が壊れていく。そして最後には元の障害がある状態に戻ってしまう。
著者のダニエルは、「頭が良くなるだけが人間が生きる道ではないんだよ。こころが一緒に成長しなければ意味がないんだ」と、言っているように感じた。
この本を初めて読んだ時、自分の人生が見透かされたような気がして、「生き方を考えなおさなければいけない」と思った。
「人間にとって、頭が良いのが正解なの?
それとも人間には、頭脳よりももっと大切な何かがあるんじゃ無いの?」
主人公のチャーリーが、そんなふうに問いかけてくる。
僕がこの本に出会ったのは、アメリカのシリコン・バレーでIT関係の仕事をしていた時で、離婚をした直後ということもあって何もかも上手くいってなかった時だった。
頭の中は、白い霧のようなものに覆われていて、鬱(うつ)と言われるような、何も考えられない状態だった。
それまで得意だった暗算が、急に出来なくなったり、スーパーに買い物に行って何を買って良いのか分からなくて立ちすくんだり、自分という存在が解らなくなっていた。
そんな時にこの本に出会った。
著者のダニエルは、優しく、主張すぎる事なく、話しかけるように問いかけてくる。そして、こころ中の本当の言葉を浮かびあがらせてくれる。それはまるで乾ききった砂漠の中に、小さな井戸が出来て、少しずつ水が湧いてくるようだった。
人間として生きるのに、頭脳や知識だけでなく、もっと大切なものがある。
誰かの思いに合わせて、自分の人生を生きる事が大切なんじゃない。
本当に大切なものは何なのか?
そんなふうに、ダニエルの言葉は問いかけてくる。
しかしそんな答えは簡単に見つかるわけじゃない。
それでも自分にいつも問いかけて、諦めないで答えを見つけようとする姿勢が大切なんだと思える。
瞑想教室に通い始めて
それから僕は、近所にあった「瞑想教室」に通い始めた。そして瞑想を始めて、頭の中の白い霧は少しずつ消えていった。
霧がはれて、それまで動いてなかった脳の各部が少しずつ動き出す。そんな感覚が手に取るように、目に浮かぶように解った。
きっと、アルジャーノンが脳手術を受けている時も、そんなふうに脳が動いたのだと思う。
自分の脳が少しずつ動き出していく。昨日動かなかった部位が、今日活性化して動き出す。その感覚が心地よかった。
それでも自分の脳が、以前と全く同じ状態に戻る事は無かった。
得意の暗算は出来ないままだった。言葉を口に出して話をするのも苦手で、言語中枢を司る脳の部位が十分に機能してないように感じた。
脳の動かない部位を、他の部位がカバーしようとしたのだろう。以前は感じなかった能力が得意になったところもあった。その一つが共感覚という感覚だった。
共感覚というのは、何かを感じた時、関係のない他の感覚でも何かを感じることだ。
例えば、味覚的に辛いと感じた時、それと同時に痛みを感じたり、熱いと感じたり、赤い光を見たりと、異なった感覚を感じたりする。これは命が危険な状態の時、感覚を敏感にして身を守るため、そして瞬間的に生存力を高めるために有効な能力で、本来は皆が持っている。
しかしそのような能力は、みんなとの共同生活をするのに邪魔になる場合が多々ある。だから現代社会の中では、あえてそのような感覚を劣化させる教育や生活環境を強いるようになっている。
ぼくが能力を増した共感覚は、相手の感じていることやイメージが視覚的に見える、あるいは聴覚的に言葉となって聴こえるという感覚だ。
小さい頃、じゃんけんをして相手が何を出すのかが直前に解った時があった。ずっとあいこだったこともあって、その頃は何故じゃんけんをするのか理解できなかった。
小学校に通うようになって、そういった感覚というのが、特殊なことで、嫌がられる能力なのだと解っていった。
だからそういった感覚は、いつの間にか抑えられて無くなっていった。
自分自身では気がつかなくても、そういう能力を無意識に持っている人は多少なりともいるようで、ジャンケンをしてずっとあいこだったりする人がいる。あるいは一緒に買い物をしたり食事をしたりすると、思いがけずも同じ物を買ったり注文したりする。
僕がうつになったのは、まわりの人たちに合わせて自分の感覚を抑制して、いつの間にか自分自身の感覚が解らなくなってしまったのが原因だったのだと思う。
それが瞑想を始めて、自分の感覚を取り戻し、自信が持てるようになって共感覚と上手に付き合えるようになった。
そして「まわりの人たちに合わせなくて良いんだ」と思えるようになって、やっと安心したように思えた。
日本に帰ってきて
それからの僕は、自分の生きる目的を考え始めるようになった。
ただお金を稼ぐだけの仕事をするのではなく、誰かのために、世の中のやくにたつような仕事をしたいと思った。
そしてそれまでの生き方を変えようと思って、日本に帰る決心をした。
まず大阪で瞑想教室を開いて、瞑想を教えはじめた。そして妊婦さんの出産の精神的なお手伝い「スピリチュアル・ミッドワイフ」(たましいの助産師)の活動をしようと考えた。
アメリカの瞑想教室では「スピリチュアル・ミッドワイフ」という、出産のための精神的なスピリチュアル・カウンセリングの勉強もしていて、日本でもその活動を広げたいと思った。
しかしそんな山のものとも海のものとも解らないような人に仕事を依頼をする妊婦さんもなく、何かをしたいと模索して困っていた時にSちゃん親子を紹介してもらったのだった。
「アルジャーノン・プロジェクト」は、Sちゃんのヒーリングから始まった。
この出会いがきっかけで、それから多くの発達が気になる子どもたち、そして親たちに関わるようになり、このプロジェクトが本格的に動き出した。
13歳の自閉症の子ども
「まさかこんな事が 我が家に起きるなんて」
当時13歳の自閉症の男の子。その子は、極端に少ない単語の発語しかなく、何を考えているのか解らない。親でさえ意思疎通が難しい子どもだった。お母さんはその頃、情けない気持ちでいっぱいだったそうだ。
それがヒーリングしてる最中、突然その子の目がパッと見開いて、目付きが変わった。
そしてそれから、口にする言葉が少しずつ増え、テレビの字幕を見ながら、ひらがな、カタカナ、漢字ともの凄い勢いで覚えていった。
出来なかった正座も出来るようになって、みんな驚いた。
人間というのは、生まれてから少しずつゆっくりと、こころと身体が成長していって、精神的にも大人になっていくものだ。
それが13歳になって、突然「意識」が宿ったような状態になった。あの頃は、身体が13歳で、中身の「意識」が赤ちゃんのままという、アンバランスな状態だった。
「これから2年間は大変ですけど、頑張ってください」
あの時、大変な子育てにも終わりがあって、報われる時が必ずくる事を知らせたくて、お母さんにせめてそう伝えたかった。
子どもはそれから、徐々に意識が明確にって、気持ちを理解して欲しいという思いが強くなって、学校や家庭で、感情的になって暴れて迷惑をかけた事もあったという。
それまでの不満や思いがいっきに爆発したような感じで、特にお母さんへの攻撃は強く、何度も取っ組み合いの喧嘩をした。
初めは「怖い」と思ったのが、「息子は全身で思いを表現しているんだから、思いをしっかり受け止めるぞ」と、お母さんは腹をくくって接するようになった。
それまでは、お互いに手探りな状態で、ぎくしゃくとした関係だったのが、「生まれて初めて子どもと本音でぶつかり合うようになった」という。
それは、『魂のぶつかり合い』で、本当に大変で、とても辛い時期だったと言います。
それでも、「そんな大変な状態なのに、なぜか充実感を感じていた」そうです。
それまで子育てに対して、あるいは自分自身に向き合うという事を避けていたのかもしれない。だからこそ、向き合わざるおえない状態での子育ては、彼女自身を見させてくれ、成長させて強くさせてくれた。
それから数年経ってはじめて、彼女は「親子の強い繋がりを感じた」と言います。
「言われたように、本当に2年間は大変な子育ての時期でした。
でも、やっとスタートに立てた。
諦めないでここまでこれて、本当に良かった」
そう伝えてくれたお母さんのこの言葉から、彼女が過ごした大変な時と、強い思いが伝わってくる。
これはあの時13歳だった彼が、中学校で生まれて初めて描いたお父さんの絵だ。
瞑想をした時、ヒーリングを受ける時、いつも子どもの手を引いて連れてきてくれた優しいお父さん。
この絵を見て、お父さんもお母さんも、すごく嬉しかったのだろう。その思いを僕に伝えたくて、送ってくれたのがよく解る。
親が子を思う愛が、そして子どもからの親への愛が、この絵から伝わってきて目が潤む。
僕が子どもや妊婦さんに会うのは、彼らの時間にしてみればほんの一瞬だ。近くに住んでいれば、会う機会もあるのだろうけど、会って話をするという機会はあまり無い。
だからその後の様子を伝えてくれるのは、とてもありがたく嬉しく思う。
この絵から、お母さんが数限りなく流しただろう涙が、そして諦めないで親子で成長した思いが伝わってくる。
後悔しないで、前を見て進もうとする親子。その成長が垣間見られるようで、心動かされる。
この広い宇宙の中で、数限りなくある家族の中から、この家族を選んで降りてきて、みんなに感動を与えてくれた。
その事に、生まれるということの意味。生きるという事の意味を考えさせられる。
そう思わせてくれた、この家族との出会いに感謝しないではいられない。
ダウン症の赤ちゃん
「アルジャーノン・プロジェクト」では、それから多くの「発達が気になる子どもたち」に関わるようになり、そしてその家族のための「瞑想」の指導をするようになった。
自閉用、発達障がい、ダウン症、遺伝子の突然変異などの子どもと家族たちと関わるようになり、そして安全な出産のための瞑想指導、「普通クラスに通う子どもと親の瞑想」なども行うようになり、たくさんの感動を見させてもらった。
そんな中でも、センジュ出版から2016年に出版された「いのちのやくそく」という本の中に紹介させて頂いた、ダウン症の赤ちゃんのヒーリング。このエピソードは、とても印象的でこころに残る出来事だった。
「この子が大きくなった時、日本の社会は、すんなりとこの子を受け入れてくれるだろうか。
いやそんな事はない。日本の社会はそんなに甘くない。
それでも少しでも、この子が将来、生きやすくなれるようになって欲しい」
あの時は、そんなふうに思って赤ちゃんをヒーリングした。それでも赤ちゃんが拒んでいて、なかなかうまくいかなかった。
「この子、何て言っているか解りますか?」と、お母さんが僕に聞いた。
「『私、生きていて良いのかな?』そう言っているみたいですよ」
僕がそう答えると、お母さんの目から涙がこぼれて、
赤ちゃんの服の上にぽたりと落ちた。
その瞬間、それまで息も絶え絶えで、やっと息をしているという感じだった赤ちゃんが、大きな声で泣き始めた。
驚くほど大きな泣き声で、5分以上は泣いたと思う。
それが実は、生まれて初めて泣いた時だったそうだ。
その泣き声はまるで、
「お母さんごめんなさい。お母さんを悲しませてしまって。
悲しませるぐらいなら、生まれてきたくなかった。
でもそれでも生まれてきて、お母さんに会いたかった。
本当は生きたいんだ」と、いうふうに聞こえた。
羊水検査をしていたお母さんは、妊娠中に胎児がダウン症だと解って、生むのを躊躇したそうだ。そんなお母さんの迷う気持ちを、赤ちゃんは胎内にいた時から察していてのだと思う。
それが泣いた事で、悲しみや苦しみといったストレスが手放されて落ちていった。
それからの赤ちゃんは、驚くほど元気になった。
そしてお母さんもそれから腹を据えて子育てをするようになった。赤ちゃんは本当に元気で可愛くて、ダウン症だと言われないと解らないぐらいに健康になっていった。
このエピソードを思い出すたびに、「子どもを育てるのはお母さんの、我が子を愛する気持ちなんだ」と改めて思い、胸を熱くさせられる。
「いのちのやくそく 」を読んで、出産を決意した妊婦さん
実はこの「ダウン症の子を持つお母さん」のエピソードを知って、ダウン症の胎児を出産する決心をした妊婦さんがいた。
その妊婦さんが来た時は、ちょうど羊水検査の結果が出て胎児がダウン症だと知らされた直後だった。
「中絶しますか?」
アメリカでは胎児がダウン症と解ると、まず中絶を勧める。
お医者さんが言ったその言葉はすごくショックで、まるで胎児にピストルを向けられたように感じたそうだ。
彼女は悩んで僕に相談したけど、僕が答えを出せるわけもなく、決めるのは彼女しかいない。
ただその時、僕が出来たのは「いのちのやくそく 」に書かれている「ダウン症の赤ちゃんの話」が書かれている箇所を説明してあげる事だった。
もちろん、子育てをするのは僕じゃない。
出産してその後の苦労を考えると僕が何かを決めたり言える立場ではない。彼女が中絶したとしても、誰もそれを責める事は出来ない。
それでもダウン症の子を生んで、幸せに過ごしている家族もいるという事を、ただ知ってもらいたかった。
あの時、僕の腕の中で大きな声で泣いて、生きる迷いを振り落とした、あの時の赤ちゃんの泣き顔が目に浮かんだ。
それから妊婦さんと一緒に瞑想して、胎児が何を言っているのかを聴いていった。
「生まれたい」
彼女の身体の中にいる胎児から、そう聞こえたように感じた。
「私も生みたい」
あの時、泣きながらそう言った彼女の涙を忘れない。
そして彼女は、出産を決意して、元気な男の子を生んだ。
それから2年経って、彼女から久しぶりにメールもらった。
一緒に元気そうな子どもの写真が送られてきた。
ダウン症だと言われなければ、本当に解らないぐらい、利発そうで元気な子どもの写真だった。
今思えば、あの時、生む決心をしてくれてよかった。
こんな可愛くて良い子なんだもの。この子がこの世界にいなかったとしたら、この世界はどんなにか寂しくなってただろう。
あの時のお母さんに、ありがとうと感謝したい。
「何もしない」ということ
「一体、何をしたんですか?」
そんなふうに、僕が瞑想やヒーリングをしている時、何をしていたのかを聞く人がいる。
隣にいて、一部始終を見ているのだから、何をしていたのか解りそうな気もするけど、解らないから聞いてくるのだろう。
そんな時は、答えに困ってしまう。
答えたくなくて言わないのではなく、「どんなふうに言えば納得してもらえるんだろう」と先回りして思うと、何を言えば良いのかわからなくなる。
指圧やマッサージのように身体を押したり揉んだりするわけでもなく、ほとんどの場合、ただ隣に座って瞑想しているだけだ。身体に触る時があったとしても、そんな時は手を軽く触れるぐらいだ。
実際、隣で見ていても、僕はただ瞑想しているだけで「何もしていない」ように見えると思う。
しかし瞑想の後、目の前にいる人には何かしらの変化が出てくるわけだから、「何かをしている」と思うのは当然だろう。
瞑想している時の僕が「何かをしている」というのは本当だ。でもそれは頭の中だけでしている作業であり、想像力のようなものだ。実際に現実的に何かをしているというわけではない。
「何かをする」という時のその「何か」というのは、その都度違っていて、ケースバイケースで対処するものだから、それも説明するのに困る。
「病気にならなければ、病気は治せない」
これは母が若い頃に僕に言った言葉だけど、今更ながら名言だと思う。
母も昔、癒しをしていたと聞いた。
僕は、母から何かを学んだわけでは無いが、母の言う言葉には感心させられるところがある。
病気というのは、すでに現実に目の前にある事象で、その事象を分析して解析する事で、何となく原因が浮かんでくる。この世界の全ての現象には、理由、原因、因縁というのが必ずある。
だから逆に言えば、病気として現実に見える事象が起きなければ、物事の原因となるものさえ無いので、何もできないのだ。
瞑想をすると、何となくそんな事象が起きた理由や原因が頭に浮かんでくる。それは何もないところからパッと浮かんでくる、想像力みたいなものだ。
そして原因が何となく頭に浮かんできたら、からまりついてほどけなくなった糸を、ゆっくりと丁寧に紐解いてほどいていくように、始まりからこれまでの経緯を想像する。それはまるで時間を巻き戻して、原因が起きた瞬間にまで意識を戻していくような作業だ。
例えば、「遺伝子が突然変異(ミュータント)をする時には、何らかのパワフルなエネルギーが影響を与えている」と仮定する。そしてその「影響を与えているエネルギーの原因は何なのか?」という事をイメージしていく。
エネルギーが発生した時まで時間をさかのぼり、理由や原因に意識を集中させる。そして「何かが起きた時間」にまで、数百年、あるいは数千年昔まで「意識」を飛ばす。
現実の世界で発生した事象は、偶然に起きたわけじゃない。何かが必然的に起きて、何かに影響を及ぼした。そしてそこに、影響を及ぼしたところにいるのは、間違いなく誰かだ。必ず誰かの思念が関わっている。
そして僕は想像力を働かして、影響を及ぼしたその時の人と話をする。
「見つけた。君がここにいたんだね。
君はなぜそんなところに、一人で立っているの。
何でそんなに幸せじゃないの?
もっと幸せになっていいんだよ」
そんなふうに話をしていくと、その誰かからふっと力が抜けて、幸せを感じられるようになっていく。すると、もつれた糸が一気にほどけていく。
そして有害なアミノ酸、タンパク質を発現させる突然変異を起こした遺伝子のスイッチをオフにしていく、あるいは配列を変えていく、などと想像力を膨らましてイメージをしていく。
そのような作業をして、瞑想を終えて僕が目を開けると、目の前の何かが変わっている。
もちろん。そんな説明では、納得しない人もいる。
自分で説明してても、それは僕の想像力の範疇を超えた話ではなくて、変な話をしてると思う時がある。
しかし誰かに納得してもらうのを目的とするなら、
「何もしていない」
と言う方が嘘ではないし、解りやすい説明ではないかと思う。
ルーサー・バーバンクについて
ここでルーサー・バーバンク(Luther Burbank, 1849年3月7日-1926年4月11日)についての話をしよう。
彼はマサチューセッツ州のランカスター生まれで、小学校程度の教育しか受けなかった。それでも1000種類を超える、3000種類とも言われる、驚くほど多くの植物の品種改良、野菜や果樹の交配や育種をした植物学者として有名だ。
特に代表的なのは、シャスタ・デイジー、トゲ無しサボテン、マクドナルドのフライドポテトに使われている、アメリカで最もポピュラーなバーバンク種のジャガイモ(Russet Burbank potato)などで、「エジソン、ヘンリー・フォードと並んでアメリカの3大発明家の一人。人類史上最高の育種家」と称された。
しかし多くの品種改良をした彼の研究室に残された研究資料やデータは、驚くほど少なく、模造紙や紙のはしっ切れにメモをしたりと、おおよそ研究者とは程遠かったそうだ。どれだけ多くの育種をしたのか、本人でさえ解らない。そしてあまりの資料の少なさに、「彼は科学者ではない」とまで言われた。
僕が彼に興味を持ったのは、「植物の遺伝子改良する時に、植物に向かってひざまづいて話をする」と伝えられている事だ。
サボテンステーキとして食べられているトゲ無しサボテンの品種改良には10年という何月をかけたそうだが、その過程には興味深い話が残っている。
実験をした時には、いつもこんなふうに話しかけていたと言うのだ。
「お前たちには恐れるものなど何もないんだよ。身を守るとげはいらないよ。私がお前たちを守ってあげるから」
バーバンク種のジャガイモの品種改良した時は、畑で毛布1枚にくるまって一晩中過ごしながら、ジャガイモに話しかけたと言われていて、こんな記述も残されている。
「彼は植物に秘密を打ち明け、植物に力になってくれるように頼み、植物の小さな生命に対して甚深の敬意と愛情を抱いていることを植物たちに納得してもらった」
彼が思っただけで、その場で瞬間に遺伝子が変化して品種改良されたとは思わない。しかし、何らかの遺伝子を変えるきっかけにはなったのかも知れない。
彼が話しかけた後、次の世代にはもっと大きなじゃがいもが幾つか育って、その大きくなったじゃがいもをまた選別して、かけ合わせて、また良性遺伝のじゃがいもを育成する。
その繰り返しで、いつか遺伝子の突然変異が普通になるほど安定した遺伝子になっていく。
きっとそんなふうに遺伝子改良を繰り返して育種していったんだと思う。
彼は植物の品種改良に興味を持っていたけど、人科にも興味を持っていて、植物が品種改良して良性遺伝子して1番良い状態になっていくように、当時のアメリカ大陸におしよせる移民の事を思い、手間暇を十分にかけていくと、いつか時間が経つにつれ徐々に改良されていくという論をとなえた。
そして子どもを育てていく過程で、一番手間をかけてあげなければいけない要素は「愛」だと言った。
彼が植物の品種改良した時に使ったエネルギーは、「愛」だった。
愛情をふんだんに注いで、植物の品種改良をしたのだ。
「僕は、彼ほどの「愛」を持って、人に接しているだろうか?」
誰かを目の前にして瞑想をする時、バーバンクのした事を思って、こんな事を自分に問いかけていくと怖くなる時がある。
それでも、目の前で困っている人を見ると、信じないではいられない。
「絶対にこの人は、この人に関わっている人たちは、愛を感じられて幸せになれる」
そして彼らが、光の一筋でも見えるようになれて、「幸せになっていいんだ」と信じられるようになれたら、その姿は光り輝いて美しくなる。
人は変われる。思いは必ず伝わる。僕はそう信じる。
きっとそうやってこれまで、人間は成長してきた。
人間が、愛や思いを持って植物や人の遺伝子の変化に影響を与えることが出来るという事が本当なら、地球上の植物や人間は、愛や思いによってこれまで創られてきたとも言える。
話をもっと広げていくなら、この宇宙の全ての有機物、無機物を含む全てのものは、私たちの愛と思いで創られてきた。そして私たちの思念が宇宙を創って、人間を創った。
父の思い
「いのちのやくそく 」にも書いたのだけど、僕が「発達が気になる子ども」や遺伝子障がい、自閉症の子どもたちに関わるようになったのは、子どもの頃に大病をして長期入院した経験が大きな影響を与えていると思う。
アルジャーノン・プロジェクトを始めた頃は、自分がなぜこんな事をしているのか理由が解らなかった。
入院していたのは数十年前の事で、すっかり忘れていた。自分の人格形成にそれほど影響を与えているとは思っていなかった。
それが気がつかないところで、あの頃の気持ちがこころの傷となって残っていた。
そう思って思い出せば、あの頃、運動しているクラスメートの姿をはじのほうで体育すわりして寂しそうに眺めていた自分の姿が目に浮かぶ。
あの頃は自分のことでいっぱいいっぱいで、周りの人たちの事を気づかう余裕が無かった。いつも一人ぼっちで悩んで、落ち込んでいて、暗く自分の世界に閉じこもっていた。
あの頃、助けようとしてくれたのに傷つけてしまった人たちに申し訳なく思う。
思いどうりに出来ない気持ちを、いちばんぶつけた相手は両親だった。
「ふびんな子。かわいそうな子」と思われて、特別扱いされるのが嫌で気を張っていて、余裕が無かったんだと思う。
特に親父には八つ当たりばかりしていた。自分の弱さを認められなくて、反発ばかりしていた。
それが、障害を持つ子どもたちと関わるようになって、今は亡き親父の気持ちが痛いほど良く解るようになった。
「何でうちの子だけ身体が弱いんだろう」
僕には絶対に言わなかったけど、父は僕を不憫に思っていた。何年も経ってから母からその言葉を聞いて涙が流れた。
言葉少ない父だった。
お互いに思いを口に出して言うことが苦手で、だから父が解らなかった。
あの頃は言うこと為すことに反発ばかりして、はっきり言って父が嫌いだった。
それなのに今思い出すことと言ったら、迷惑ばかりかけていたこと、入院していた時に毎日お見舞いに来てくれたこと、一度だけ遊園地に連れていってもらったことなどで、悪い思い出は一つも浮かんでこない。
今は、あの頃もっと話をして分かち合えていたらと思う。
「この子が大きくなった時、この世界は、すんなりと受け入れてくれるだろうか?
いや、この世界はそんなに優しくない。
普通じゃない人を排除しようとする。
この子が大きくなった時、少しでも生きやすくなれるように。
ちょっとでも生きやすくなれるようになって欲しい」
そう祈るように思う僕の気持ちは、あの時の父の気持ちと同じだ。
そんなふうに父を思えるようにやっとなれた。
当時の医療では、確立した治療法が無い難病だった。だから僕の病気を改善させようと、両親は癒しを学ぶようになった。
「どんな方法を使っても、子どもの病気を良くさせてあげたい」と思っていたんだと、「アルジャーノン・プロジェクト」に関わるようになってやっと理解出来るようになった。
父はもうすでに他界してしまったけど、子どもたちと関わっているとあの時の父の気持ちが思い浮かぶ。そして今頃になって、父の愛に育てられてきたんだと思えて、胸が熱くなる。
人は死んでも、「愛」は永遠に残る。
その人が何かをしたということは、決して消えて無くならない。
永遠に胸に刻み込まれる。
その胸を熱くさせる思いが「愛」なのだと思えるようになってきた。
恐れを手放す
「息子さんが 学校から居なくなりました」
学校から連絡をもらって、その日、お母さんは校長先生と教頭先生とで探しまわった。
そして通学路を上履きで彷徨っていた息子の顔を見て、
「この子の心は傷ついていて、身体を張って私に救いを求めている」
瞬時にそう理解したと言います。
いつの、どんな感情が辛く苦しくさせていたのか、解らないぐらい昔の感情。そんなものに縛られて、未来への不安に押しつぶされそうになっていた。
周囲の人たちの不安を自分のことのように感じて、自分をがんじがらめにして、身動き出来なくさせていた。
恐れや不安がつきまとっていて、濃い霧の中から抜け出られなくなって、過去や未来への思がいっぱいで、「今、此処に生きる」という事を感じられなくなっていた。
自分の本当の気持ちも解らなくて、不安や怒りといった感情に振り回されていた。
「何とかしてやらなければ」
子どもを何とかしてあげたい。あの時、そんなすがるような思いで、お母さんは瞑想会に参加した。
初めから最後まで、彼女はずっと嗚咽するように泣いていた。
それでも悲しくて泣くのではなく、それまで抱えていた重荷が、涙を流すたびにこころの中から外されていくような感じで、少しずつ楽になっていった。
彼女はその時、「恐れや不安は手放せる。自分は変われる」と確信したのだと思う。
「あの時の瞑想は、恐れや不安との決別式となった」と後日、彼女は伝えてくれた。
その数日後、その親子は大阪の事務所に来てくれ、一緒に瞑想して、さらに深く不安と恐れを落としていった。
子どもが胎児だった頃、お母さんのお腹の中にいた時をイメージして、その時にお母さんが抱えていた恐怖や不安な気持ちを自分の事のように照らし合わせ、子どもの全ての細胞から落としていった。
そして子どものひたいからシワが消えていって、おだやかな寝顔になって眠った。
「息子さんの様子が違うんですがお母さん。
どういった言葉かけをして送りだして下さいました?」
翌日、学校の先生が驚くほど子どもは身軽になった。
「今を生き、感じれるようになった。
日々、様々な事柄があって、悩むことや辛いことはたくさんあるけれど、いらない感情やエネルギーを手放して流すと、さいごには感謝が溢れてくる」
そんなふうにお母さんも、カウンセリング後には「不安と怒り」を、自分で手放せるようになって、「それまでとは全く違う人生を生きる事が出来るようになった」と伝えてくれた。
その後何年かして、親子に会う機会があった。
あの頃とはうって変わって、穏やかな様子で、笑顔が絶えなかった。
「不安や恐怖で自分が解らなくなる」ということは、実は感情に敏感という事で、自分自身の感情を掘り下げていけば、もっと豊かな感情表現が出来るようになれる。
そんな繊細な感情を上手にコントロール出来るように、瞑想を欠かさず実践してると聞いた。
ちょっとでも、ほんの少しでも自分の気持ちが理解できるようになれば、人は幸せになれて前に進む事が出来る。そうやって変わることが出来た親子を見て、「人は変われる」と信じられて、嬉しくなった。
ミステリー・トレイン
JRがまだ国鉄と呼ばれていた頃、「ミステリートレイン・銀河鉄道999」という列車ツアーが企画された。その頃は「銀河鉄道999」という漫画やアニメが流行っていて、鉄道の旅に未知のロマンや希望を感じていた頃だった。
「ミステリートレイン」というのは、行き先が解らないまま始発駅に集合して出発するというツアーで、そのツアーが発表された時には皆ワクワクして、僕が行っていた田舎の中学校でも話題になった。
いつもは読まない新聞を毎日読んで、テレビのニュースは欠かさず見て「銀河鉄道999」の動向を毎日チェックした。切符が発売された時には、信じられないくらい多くの人たちからの応募があってびっくりした。
「今日が銀河鉄道999が出発する日だね。上野駅から出発するから、きっと僕らの住んでる東北に来るんだね」
出発当日には、その列車に乗るわけでもない関係のない田舎の中学生の僕達も話し合った。
終着駅が全く知らされていない列車。
まさか本物の銀河鉄道999じゃ無いから、宇宙に行くとは思っていなかったけど、終着駅を知りたいという好奇心は強かった。
けれど翌朝の新聞を見て、行き先が烏山駅だと知って、その瞬間に「ああ。終わってしまった」というがっかりした気持ちになって、寂しい脱力感に包まれ、暫らくの間呆然として何も出来なかった。
「アルジャーノン・プロジェクト」という、発達が気になる子ども達の為のエネルギーワークは、そんな「ミステリートレイン」のようだった。
誰も知らない夜中に静かに出発する「プロジェクト」は、ワクワクとした期待を持たせてくれて、それでいて何処に行くのか解らない不安もあった。
「この人は何処に連れて行ってくれるか解らない。それでも今まで行った事のない未知の場所に連れて行ってくれるような気がする。
今、乗らないと乗り遅れてしまう。この列車に乗れるチャンスは二度と無い。目の前にあるこの列車に飛び乗らなければ、通り過ぎてしまう」
参加してくれたみんなは、そう思っていたのかもしれない。
リーダーの僕だけが行き先を見ていて、誰も行き先の知らない列車。
「アルジャーノン・プロジェクト」という名前さえ最初は無かった。
「何処まで行くんだろう。この子ども達はどんなに成長していくんだろう」
子ども達がどんどん成長していくのを見ながら、参加している皆がワクワクしていった。
そんなプロジェクトが始まって、様々な出来事を乗り越えて進んで、そして終着駅が何となく見えてきたあの頃。
プロジェクトが始まった頃のワクワク感が無くなって、祭りが終わった時に感じるような寂しさを感じた。
それでもプロジェクトに関わった沢山の人々、そして色々な出来事を思い出すと、何とも言えない充実感があった。
アルジャーノン・プロジェクトという列車に、タイミング良く皆が乗ってくれた。
参加したみんなの顔、子ども達の成長した顔を思い出すと、本当に良かったと思う。
プロジェクトが終着駅に着いて、やっと子ども達の長い人生の道のりが始まった。このプロジェクトで経験した事が、子ども達の将来、人生にとって有意義に影響を与えてくれればと願う。
バクになりたかった 小さい頃の夢
小さい頃、母が読んでくれた絵本にバク(貘)の話が載っていた。
あの頃、僕は本気でバクになりたいと思っていた。
子どもたちが怖い夢をみた時に、夜中に歩いてその怖い夢を食べるこころ優しいバク。暖かい夢と希望を与えるバクだった。
寝てる間に怖い夢の中に閉じ込められて、もがいて苦しんで逃げられなくなってしまった時、
何処からともなく忽然と現れて、悪者をやっつけて、怖い夢の中から
子どもたちを救い出す正義の見方。
そして未来への夢と希望を与える。
そんなバクになりたかった。
みんなが寝静まった夜中に、夢の中を覗き込む。
怖がって、泣いてる子どもはいないかな。
一人ぼっちで寂しくしてないかな。
ひとりひとり寝顔を見ながら確かめる。
ああ、この子はもう大丈夫。
この子は、これはは苦手だけど、こっちの能力を伸ばせば楽に生きていける。
この子は、ゆっくりだけど確実に自分のものにしていくタイプ。
ゆっくり自分で出来る事をさせて、ちょっと離れたところから見つめてあげれば伸びる。
この子は叱ってあげると愛情を感じるから、感情を入れないで正すように叱ってあげて。
そんな事が、それぞれの子どもの顔を思い出す度に頭の中に浮かび上がる。
大丈夫、大丈夫。皆これから楽に生きていける。
世界にはもっともっと見なくちゃいけない事、経験しなくちゃいけない事が待ってるよ。
夢と希望が持てるように、これからも前を見て進んでいかなくちゃ。
その後のアルジャーノン・プロジェクト
「アルジャーノン・プロジェクト」では、その後、多くの「発達が気になる子どもや家族たち」に関わるようになった。
それから遷延性意識障害の患者、いわゆる植物人間と呼ばれる方々へのヒーリングにも関わるようになり、10年以上寝たきりだった患者さんが数ヶ月後には、支えられながらも歩けるようになったという例もあった。
危篤で昏睡状態の方や、余命宣告を告げられた方、言葉を話せない状態の方とコミュニケーションする瞑想もするようになった。
そういう時は、死を恐れ、残していく家族やこの世界への未練を残して躊躇する人の気持ち、その恐れの気持ちを自分の事のように受け止めた。
そして、死への恐怖が消えて、家族への愛が感じられるようになって、残されていく家族は優しさと幸せに包まれた。
そんな時、死を超えて残るのは、愛だけだと感じられた。
「幸せ」を感じる権利
「いってきます」
それが、生きている時に聞く最後の声になるかもしれない。
今日の幸せが、明日も続くとは限らない。
何気ない日々の中で感じる幸せに、ありがたいと感謝して、人と出会えた事に感謝する。
小さな幸せに、素直に「幸せ」を感じられるようになりたい。
誰でも「幸せ」を感じる権利がある。
何があっても、どんな時でも、人は、「幸せ」を感じられる。
それが、生まれる前でも、死ぬ間際でも、死んだ後でも、「幸せ」を感じる権利を放棄してはならない。
そんな事を思って、様々な状態の方の横に座って瞑想をした。
妊娠中毒症で生死を彷徨って、朦朧(もうろう)としていた妊婦さんの横で、
植物人間と呼ばれ意識が無い状態の方の横で、
末期ガンで昏睡状態で今まさに危篤の方の横で、
そして、たくさんの方が自殺したという場所で、
色んな場所で瞑想をした。
ほとんどの場合、目の前で横たわっている人とはその時が初対面で、
話をした事もないけど、古い友人のようにこころの中で語りかる。
口にする言葉ではなく、こころに浮かぶ思いを「意識」に向かって話かける。
生死の間際で、何を抱えて苦しんでいるというのだろう。
あなたは生きようとしているのだろうか。
もしあなたが生きようとするなら、
本当に「生きたい」と思うなら、僕は全力で助ける。
それとも死のうとしているのだろうか。
もし死んでいくなら、こころの準備は出来ているのだろうか。
抱えているものを手放して、幸せに旅立つこころの支度は出来ているのだろうか。
もし本当に「幸せになりたい」と思うなら、僕は全力で助ける。
そんなふうに横たわる人の隣で瞑想をして、一緒に、こころの重荷を整理していく。
「生まれたい」
そう言っていた妊娠23週目の胎児は、その後すぐに帝王切開で生まれた。
それから2年経って、お母さんから送られてきた写真には、元気そうな男の子が写っていた。
生まれてすぐに自発呼吸を初めて、脳にも身体にも障害が残らなかった。もうすぐ保育園に通うと書いてあった。
写真を見て、お母さんの「愛」が、これまでこの子を育てたんだと感じて素直に喜んた。
赤ちゃんが生まれるという事は、本当に人智を超えて、人の力だけでない神秘を感じる。
生まれるということは、それだけで奇跡なんだという事を、この親子から教わった。
日々の生活に感じる幸せ
昔は、お産婆さんが家にきてお産を手伝ってくれた。
亡くなる時は、死んだら家でお葬式をするのが普通だった。
それがいつの間にか、出産する時も、死ぬ時も病院になって、家での生活からかけ離れてしまって、特殊な事情になってしまった。
生まれるという事、そして死ぬという事は、本当は自然な事なのに、生活から切り離されてしまって、考えることさえ出来ないようになってしまった。
人の生死について感じようとすると、思考がストップしてしまう。
一旦病気になって入院したり、障害や妊娠で働けない状態になってしまうと、世の中の歯車からこぼれ落ちてしまって、社会から拒絶されたように感じてしまう。
生まれる前や死んだ後といった見えない世界というのは、本当は見させてもらえてない世界で、目の前にあるのに見ようとしてないだけなのかもしれない。
そんな事を思って、末期ガンで昏睡状態、今まさに危篤の方の横で瞑想をした事があった。
「死ぬ時は、家族に看取られて家で死にたい」
膵臓癌を患って余命いくばかりも無いと言われて、それでもその後2年という間を生き延びた彼女は、その日に病院から家へ帰ってきた。
かかりつけの二人のお医者さんが、「もう今夜には亡くなるだろう」と言っていた。
そしてその後に僕が訪れた。
目の前で横たわっている人とはその時が初対面で、話をした事もなかったけど、古い友人のようにこころの中で語りかけた。
言葉でのコミュニケーションではなく、彼女の意識に話かけた。
そして一緒に、こころの重荷を整理していく。
死の間際で何を抱えて苦しんでいるというのだろう。
あなたはもう、死んでいくんですよ。抱えているものを手放して、幸せに旅立っても良いんですよ。
さあ、僕と一緒に、旅立つための準備をしましょう。
僕の手を取って、怖がらないでついてきてください。
そんなふうに横で瞑想をしていると、
その方はいつの間にか落ち着いてきて、寝息が大きくなって、
苦しそうに息をしていたのが、
スヤスヤと安らかになって、
ひたいのシワが無くなって、
幸せそうな寝顔になっていった。
そばにいた家族のみんなも幸せそうになって
彼女と深い繋がりを感じたようだった。
安らかに眠っている彼女の姿を見て、
「もう大丈夫。数日間は生きていますから、その間にお別れの言葉を伝えてあげてください」と言って、その家を後にした。
それから彼女は驚いたことに1週間ほど生きていた。
「家族のみんなが普段どうりの生活をしていて、家に帰って一番最初に寝ている母に話して報告していたんです。
何かあるたびに母に話しかけていました。
母は、昏睡状態で言葉を話す事は出来なかったけど、本当にこころは繋がっていたと感じました」と、娘さんは言ってくれた。
当たり前の事だけど、人は誰でも死んでいく。
普段の生活の中で、家族が仕事に行って、学校へ行って、何気無い生活の一場面の中で、家族の一人が、家を出て新しいアパートに引っ越しするように自然に旅立っていく。
今は、そんな自然な事が感じられない世の中になっていて、死ぬという事が生活から切り離されてしまっている。
そして生まれるという事も、生活から離れていて、健康で元気で仕事をする状態が当たり前だと思わさせられている。
一旦病気になったり、障害や妊娠で働けない状態になってしまうと、世の中の歯車の中から落ちこぼれてしまうように感じたりする。
生まれる前や死んだ後といった見えない世界というのは、本当は見させてもらえてない世界で、目の前にあるのに見ようとしてないだけなのかもしれない。
幸せに死んでいくということ
「もう死んで良いんですよね」
「もう無理しなくて良いんですよ。あなたの頑張っている姿を見て、家族の皆んなはとても励まされましたよ。
もう大丈夫だから、あなたの都合が良い時にいつでも旅立ってください」
数日後に訪ねた時、彼女の体力は限界になっていて、苦しそうだった。
そして彼女は、その数日後に旅立った。死に顔はとても幸せそうだったと聞いた。
「死ぬ直前に、カッと目を開いたんです。
そしてその時の顔が、今まで見た事もない女子高生みたいで幸せそうだったんです」
娘さんは、人は幸せに死ねるんだと、そして見えない世界を信じられるようになったと言ってくれた。
それから、死が生活の一部として感じられた彼女の家族は、何かあるたびに仏壇に手を合わせて彼女に報告するようになった。
「生きていた時より話をして報告するようになりました。母はもう死んで身体はないんだけど、今でも彼女を身近に感じるんです。たましいで繋がっていると感じます」と、幸せそうに話をしてくれた。
そんなふうに、亡くなっていく全ての人たちが、こころの重荷を手放して、幸せに旅立っていければと思う。
愛する人が死んでも、残された人たちはお互いにたましいで繋がって、幸せになれるんだと伝えたい。
危篤で昏睡状態の女性の横で瞑想をした時、
苦しそうに息をしていたのが、安心したようにゆっくり大きく息をするようになっていった。
全ての心配事を手放したようで、ひたいのシワが無くなって、幸せそうな寝顔に変わった。
お医者さんから「その晩に亡くなる」と言われていたのに、彼女は1週間ほど経ってから亡くなった。その間、家族は仕事に行って、学校に行って、普段の生活をしていた。
その普通の生活の中に彼女がいた。
みんなは帰ってくると、まず寝ている彼女に話しかけた。昏睡状態で話を聞くことは出来ないはずなのに、その話をしていた空間には、穏やかな空気が流れていたと言っていた。
「死ぬ直前に、カッと目を開いたんです。
そしてその時の顔が、今まで見た事もない女子高生みたいで幸せそうだったんです。
人は幸せに死ねるんだということ。そして人は死んでも、亡くなった人の「愛」は、そこにあって、いつも家族を見守ってくれていると信じられるようになりました。
母を家で看取るということが出来て、本当によかった。
私は以前より、見えない世界を信じられるようになりました」
お母さんの死を看取った娘さんは、そう伝えてくれた。
当たり前の事だけど、人は誰でも死んでいく。
普段の生活の中で、何気無い生活の一場面の中で、家族の一人が、家を出て新しいアパートに引っ越しするように旅立っていく。
死が特別と思うのでなく、亡くなっていく全ての人たちが、そんなふうにこころの重荷を手放して、幸せに旅立っていければいいなと思う。
そうすれば、愛する人が死んでも、「愛」はこころの中で、決して消えて無くならない大切な宝物になる。
そして残された人たちは、お互いに「愛」で繋がれて、幸せを感じられると思う。
アルジャーノン・プロジェクトの今、
幸せな「空間」への働きかけ
最近は、人間の脳や身体に良い影響を及ぼすなら、「空間」にも同じように作用するに違いないと思い、無機質な物や空間を人間だと思って瞑想をするようになった。
小さい頃は、「ご飯粒の一つ一つに観音様が宿るから、残しちゃ駄目だ」とよく言われた。
それは日本古来から伝わる八百万の神、つまりすべての物象に神様が宿るという考え方だ。
もちろん「空間」が人間であるわけはない。脳や身体も存在しない。
しかしそれでも「空間」に名前をつけて、人間だと思って話をすると、その「空間」が、あたかも人間のように思えてくる。
そう思って話をすると、そこは「愛」があるように感じられてくる。
幸せをもたらす「空間」となって、そこで時を過ごす人たちが幸せになっていくように想像できる。
その「空間」は、神社のような清らかな場所だ。
それはただの思い込みなのかもしれない。
しかし、「人間にとって脳や頭脳が1番大切なものでは無い。それ以上に大切なものがある」と仮定するならば、もしかするとその大切なものは、「空間」にも当てはまって、「愛」が宿るのではないかと思えてくる。
「空間」を人のように思いを持って接すると、頭脳が無くても会社や家が生きてるように感じられる。そして無機質な建物や家なのに、まるで家族の一員のように思えて、幸せな空気が流れてくる。
そこでは、仕事がうまくいって、人が集まって、みんなが幸せを感じられるようになっていく。
そんなふうに「瞑想」して、こころの中にある「愛」を高めていくと、人にだけでなく建物や空間にも、そして物にも「愛」が宿るように感じられるようになる。
これまで、レストラン、幼児教室、小売店舗、食品工場、精密機械メーカー、板金工場、マッサージサロンなど、これまで様々な場所や空間で瞑想の実践をさせてもらった。
オーナーさんと一緒に瞑想をして、そこの「空間」に宿る「意識」と話をする。
「どうだろう。此処に来る人たちに、あなたが愛と幸せを分かち合うというのは。
あなたは木としての役目を終えて、「空間」としての新しい役目を受けて生まれ変わる気はないだろうか?
ここに集う人たち、学ぶ子ども達を見守って、成長させるための場として生まれ変わらないか?」
そんなふうに話をすると、部屋の雰囲気が暖かくなって、そこにいる人達を包み込んでいくように変わっていくように感じた。
そして木の暖かい温もりが心に染み入ってきた。
その木は、それまで森の中で勝ち抜くための生存本能だけで生きてきた我を捨てて、「人のためになる空間」としての有意義な存在理由が持てた。
誰かのために、やくにたつ生き方を与えられて嬉しそうに感じた。
だからその部屋の全てが、そして人の心まで暖かい雰囲気に変わった。
人はただ物を買いに来るのでは無い、
目に見えない何かを欲して来る
「それまで職場で長い時間過ごすのが嫌だった。
それが瞑想をして、職場の居間で子どもたちと食事してくつろげるようにまでなれたんです。
家族と一緒に、穏やかに時間が過ぎていく幸せを感じました。
お客さまも、このお店に来たいって言ってくれるようになりました」
と、お店の雰囲気が変わって、お客さまも増えたと言ってくれた方もいました。
目に見える何かが大きく変わったわけでないのに、人が集るということは、
それは、人はただ物を買いに来る、サービスを買う、食事しに来るだけでは無い何かを欲しているという事だ。
その「魅力的な何かとは、いったい何なのか?」が理解できれば、家や職場はもっと魅力的になって、経済がまわって、人は幸せになる。
きっとそれは「愛」とよばれるものなんだと思う。
もし「愛」という言葉に馴染み難ければ、
「家やビジネスを円滑にまわす大切な要素」とよべばいい。
愛の反意語は、嫌悪や憎しみではない。愛の反意語は、無関心だ。
幸せになるのを諦めた、その瞬間に、現実に起きるすべての出来事、物象に対して無関心になっていく。愛を感じなくなっていく。
それは生きる気力を少しずつ侵食して崩していく。少しずつ無関心が拡がっていって、利他の気持ちが無くなっていく。想像する気持ち、思う気持ちを否定させていく。
頭の中は、白い霧が覆われていって、何も感じなくなっていく。
生きていること、存在することに無関心になって、ついには誰かのためのロボットのようになって生きていく。
それは、生きているのか死んでいるのか解らないような状態で、身体の中から「意識」が抜け出してしまう状態だ。
この世界のすべての物象には、そこに存在する理由、生きる理由、そして死ぬ理由が必要だ。
そうでないと、存在するそのこと自体が無意味で、いてもいなくてもいいように感じてしまう。
何も出来ない理由は、いくらでも見つかる。
でももう、何も出来ない人生は、もう嫌なんだ。
自分はこの世界に生まれてきて、何かをしたという事を実感したい。
生きているということ、そのことに意味を持ちたい。
諦めないで、自分が生きる理由を探し求めて、いつかこころの中に誰かからの「愛」を見つけて、自分が「愛」されて生きてきた、この世界に存在しているのは無駄ではないと思える。
死んでいく時に、誰かの顔を思い浮かべて、この人のために自分は生きれて良かったと思える人生にしたい。
そんな目に見えない「愛」や「幸せ」というのが、大切だということを人は「たましい」の何処かで知っている。だから「幸せを感じる空間」に自然と足が向かい、足を踏み入れて喜びを感じる。
そこで感じるのは、母親の無償の愛であり、家族の愛だ。それは利他の思いであり、人の幸せを願う気持ちだ。
誰かが、誰かの幸せを思う。それは愛であり、生きる力となる。
「アルジャーノン・プロジェクト」の本質は、そんな「愛」なんだとやっと解るようになった。
本当に大切なものは目に見えない。その目に見えないものを信じて、幸せを感じて前に進むのが大切なのだと、子どもたちに教えられた。
誰でも「幸せ」を感じる権利がある。
生きていようが死んでいようが、どんな状態に関わらず、どんな時でも、何があっても、人は、「幸せ」を感じることが出来る。
それは僕たちの権利であり、絶対に放棄してはならない。
なぜなら、僕らは「幸せを感じる」、そのために生まれてきたのだから。
そしてそれは、諦めさえしなければ、絶対に手に入れることが出来る。
だから全ての人が、絶対に諦めないで、光を見て 前に進んで欲しいと願う。
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