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“穴”を前にして語ること/加藤拓也『滅相も無い』

加藤拓也が脚本・演出を務めたSFドラマ『滅相も無い』は語り甲斐しかない作品だった。「演劇をやれば映像的だ、映画をやれば演劇的だと言われることに嫌気が差し」(参照)、本作ではそのどちらの手法も用いられて作られている。

《あらすじ》
ある日、日本に7つの巨大な穴が突如現れた。様々な調査が行われたが、穴の正体はわからないまま、人々は穴とともに暮らし始めた。穴に入る者も多くいるが、帰ってきた者は誰もいない。やがて「穴の中には救済がある」と説き穴を神と信仰する者・小澤(堤真一)が現れる。

小澤を教祖とする団体の信者8人が集まったリゾート施設。小澤の説くルールでは穴に入る前に「なぜ入ろうと思ったか」を話し、記録しなければならない。そして緊張感の漂う中、8人の人生の一部分が明かされていく。

自分の人生を8人が語り合うBBQの場面は映像作品として見せられるが、それぞれの語りの内容は舞台上で披露する様を見せられる。舞台上には劇伴を演奏するUNCHAINがおり、役柄の決められていない俳優たちが8人の人生の場面を演じて再現していく。ドラマの中に演劇がある構成だ。

SF的設定でありながら、内容は人生の選択にまつわる内省的な物語であり、また演劇とドラマを両立させるこの形式もまた“人生”を語る上で非常に効果的だ。本稿ではその面白さに迫りたい。


自分史を見せること

本作では登場人物同士が濃く関わったり、伏線が貼られて回収されたり、ということはなくただ8人分の人生が1話ずつ語られるだけで進行していく。つまりその人生史を垣間見ることがイコールこのドラマを観ることなわけだが、ここで語られる人生とはあくまで“人にどう見せたいか/見せるべきか”という観点で語られた点が重要である。

例えば第2話、菅谷(染谷将太)の語りは密かに思い合っていた女性との話に終始するが、その真意はぼかされたまま話は終わっていく。また3話、松岡(上白石萌歌)の回は他の回と比べるとやや不思議なトーンで進行するが、最後には突如として人生の境目に話が繋がる。何をどのように語るかを主観に任せ続ける点がドラマを印象づける。

自分史を語る行為で職業柄どうしても想起するのが診察時における生活歴や病歴の聴取の時間である。精神科では特に人生の歩みに病理が隠されていることが多いため、苦しみの在処を探るために患者の“自分史”を語ってもらう。しかし何を重要で何を苦しいと考えているかは人それぞれであり、その語り様を冷静に観ることが必要になる。

これもまた、人生を劇として観ることに他ならない。『滅相も無い』のこの自分史の語り方はとても精神科診療的である。精神分析家でありミュージシャンでもある北山修氏は著書内で“劇としての人生”、そして“心の台本”の話をよく述べる。

心には、演じられるべき脚本や筋書きが幼児期に既に書き込まれていて、身についた一定の脚本や役割の反復上演などを性格として取り上げることができるのであろう。

北山修「劇的な精神分析入門」より

そう、語り方にはその人の人生をひと通り語る以上に、当人が何を反復し囚われているかを示すのだ。第1話の川端(中川大志)は、怒れないことにもがき、人間関係をこじらせる。第4話の青山(森田想)は母親に居場所や習い事をコントロールされ、心にしこりを残す。幼少期の自分を今の自分が演じる、という作りからも本作は潜在的な“心の囚われ”を炙り出す構造を持つことが分かる。

最終話の岡本(窪田正孝)もまた幼少期の恐怖に囚われ、何重にも折り重なった無意識と意識にその人生を支配されてきた。それが現実であったか夢であったかは最後まで明かされないが、少なくともその出来事に囚われてきた。無意識と意識の狭間に取り残される彼の姿は、何を意識的に語り何を無意識の内に隠しているのかという“語り方“を描いてきた本作を象徴していたように思う。

最終話で教祖・小澤は「人は虚構しか共有できない」という台詞を残した。目の前の広がる現実すべてを伝えることは不可能で、だとすれば自分が見たものを語るしかなく、とする現実そのものとは少し違うものしか伝えられない。その揺らぎを察し合いながら、自分史を開示し合う8人に巻き込まれることで視聴者も自分へと眼差しを向けざるを得ない。私は何を語り何を隠すだろうかと。


“穴”に何を託すのか

このドラマの舞台は“穴”という強烈な未知によって価値観や常識が変容した世界だ。”穴”は常識の裂け目であり、そこに何かあるのではないか、という予感を放っている。行き詰まる時代を打破するための欲望の表出のようでもある。”穴“が持つ未知への可能性が新たな信仰を生むのも当然だ。

”穴に入ること”を欲望する、ということそれ自体が非常に明確なメタファーを含む。それはやはりシンプルに母胎回帰の願望だろう。5話で青山を穴の向こうで母親との再会を誓い、6話で渡邊(古舘寛治)は現実から逃げるように穴に入る寸前に1本の電話を受けたことで、再び現実の母と出会い直す。母の世界に戻り、もう1度生まれ変わることができるか。“穴”はその命題を突きつける。

それと同時に”穴“は欠如の象徴でもある。穴に入るということは、その欠如に同化しようとすることなのだ。自らを滅すること、つまりは死を覚悟することもまた穴に入る直前の心理として映し出され、”穴“という未知の出現が人々を死の欲動に駆り立ているという風にも見えるのである。

例えば、2話の松岡は“死”という宿命を背負ったからこそ穴を目指す。7話の井口(中嶋朋子)の語りは“不在”が主題であり、死体を探すエピソードなど間接的ながらもやはり”死“への漠然とした好奇心が”穴“に投影されている。欠如を代替するものは存在せず、死という絶対的なものである以上、それは人が強く求めるものにもなり得るのだ。

最終話のラスト間際。岡本は“穴”を目の前にしてふと思い出したコーヒーのこと、そして降りしきる雪の感触によってなんでもないことを確かめていた。生き直したいと願うこと、死んでもいいかなと思うこと、その両方が顕在化してしまった“穴”の空いた世界で、”穴“そのものではなくその周辺にあるなんでもない現実が濃く浮かび上がってくることだってある。”穴“に何を託すのか、何も託さないのか。岡本は本作のルールを外れて視聴者に語り掛ける。あの台詞を“穴”を前にして語ることの意味をずっと噛み締めている。



「滅相も無い」とは、恐れ多い、とんでもない、といった用法が一般的だが“滅相”とはそもそも仏教用語で“消え去るすがた”を意味する。“穴”へと消え去っていったかどうかは描くことなく各話が終わっていくこのドラマの題が「滅相も無い」とは言い得て妙である。消える間際を描くのだ。

そしてオープニング映像に登場するこの“滅相様”というキャラクター。中国神話の”渾沌“という怪物に似ている。神話では人間をもてなした渾沌が、そのお礼にと”人には穴が7つある“という名目のもとで7つの穴を開けられたところ、死んでしまったという何とも悲しい物語を持つ。翻って「渾沌、七竅に死す」という諺にもなっており、人間が自然を完全に理解することなどできず、その本当の姿を知ることはできないという意味で現在に伝わっている。

渾沌に穴が空く。行き詰まった世界に風穴が空く。良いことのようで破壊かもしれず、何かを見出せそうで見逃している。その矛盾を抱きかかえながら私たちは今も何かを選び取り、世界に囚われながら喉の仏を動かし続ける。革新的な見せ方で人生の普遍的な複雑さを描く、異様で豊かな作品だった。


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