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理想像を思い浮かべる。

手段の目的化。

これは誰にでも、どんな状況においても起こりうることだ。練習が試合を意識したものではなく練習をうまくこなすためのものになっているとか、彼女作りて〜とか言ってるやつとか、それこそ、受験勉強とかそれの真骨頂だろう。

本来は自分の目指す未来を実現させるために、そこに向けた手段として大学があり、そこに進む手段として受験勉強がある。

でもこんなふうに考えてる人なんて多分1割もいないだろう。多くの大学生は早く解放されてぇと思って受験勉強に挑んでいる。偏見まみれの僕。

こんなふうに大体の人間が手段を目的化させて生きている。これは間違っているとはわかっているもののついついやってしまう。

それは楽だからだ。

手段の目的化は危ういとはいうものの、そうならないために目的を深掘りしていくと本当にキリがない。
例)あさぷろでイベントを開きたい→外側の人に旭の魅力を知ってもらいたい→あさぷろの目標である「関係人口を増やす」を叶えるため→旭地区活性化→デカいことをしたい→誰かに認められたい→自分が気持ちよくなりたい

みたいなマリアナ海溝レベルの深掘りができてしまう。だし、
Q.あさぷろでイベントをしたいのはなぜ?
と聞かれて、
A.気持ち良くなるためです。
とか言い出したら精神異常者として旭から追放されるだろう。一生朝日を拝めなくなってしまう。なんつって。

とはいえ、自分のあらゆる行動に、かなり抽象的な領域まで深掘りできていれば、現在の状況は、今やるべきことはとてもクリアになるだろう。

偉そうに言っている僕だが、マジでそういうのが苦手である。よく自分の目的を見失う。

最近、地域向けと友達向けにイベントを考えているのだが、まさに手段の目的化が起きてしまっていた。

僕は、キャンプファイヤーしたい!という個人的なアイデアから後付けでイベントの目標、規模、対象の人々を考えていた。今考えれば何やってんだこいつというかんじなのだが、当時の僕は本気だった。

周りの社会人の方からは、
「これって誰に来てほしいの?」
「何が目的なの?」
と質問攻めにあったが、僕はその場凌ぎの答えを出して誤魔化していた。

そんなイベントは必ずどこかで矛盾が生じるのである。「あれ?これって何が目的なんだっけ?」ってなったり、ここをこう決めると、そこの部分が一貫性なくなっちゃうんだよなぁみたいな事態になる。

まじでみんな気をつけろ。

アイデアベースの企画は本当に危険だ。先日の投稿でも言ったが、言ってしまえばこれは独りよがりの自慰行為野郎である。

というように自分の不甲斐なさ、頭の悪さ(今に始まった事ではない。)に絶望した僕なのだが、流石に反省して、地域で100人規模のイベントを数えきれないほどされている方に教えをこうた。

そしたら、
「最後にどうなっていてほしいかのイメージ像を立てておかなきゃいけないじゃんね。」
と答えてくれた。“じゃんね”は三河弁である。同意を求めている訳ではない。

なるほど!これが全てだと思った。来てくれた人にどうなっていてほしいかの具体的な視覚的イメージができていれば、それは目的がハッキリしていると言えると思う。

これができれば以前の僕みたいにイベントを考えている間に、目的がぼんやりしていたり、余計な部分を継ぎ足したりすることもないだろう。

そうだ、以前教えてもらった、
「企画書作るより、チラシ作っちゃえば?」
というのにも通じると思った。

チラシというのは、イベントの理想的な状態が頭にないと作れない。そういうことだったのか。

という感じでnoteを書きながら点と点が線で繋がってる感覚になっている僕の目の前には輩カップルがむちゃくちゃいちゃついている。
今の僕にはそんなのは気にならない。

“noteを書く”っていう明確な目標があるからね。

完全に手段を目的化しているやないかい。
ということで今回のnoteは以上だ。

あっすごいキスしてる〜

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