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読書感想文 #21 『英傑の日本史 敗者たちの幕末維新編』

みなさんこんばんは。いかがお過ごしでしょうか。

今日は、一日晴れていいお天気でした。在宅で、一歩も外にでませんでしたが。

今日は、最近読んだ本の感想を書きます。


英傑の日本史 敗者たちの幕末維新編

井沢元彦著

シリーズ本の中の1冊ですが、初めて読みました。戊辰戦争の敗者会津藩の知らない人が多かったのですが、いわゆる勝者の長州・薩摩の人たちに負けず個性があり、非常に面白かったです。

目次

松平容保5 徳川慶喜37 西郷頼母49 佐川官兵衛64 萱野権兵衛73 山川浩80 大山捨松90 梶原平馬102 秋月悌次郎111 神保修理126 飯沼定吉133 中野竹子139 柴五郎148 松江豊寿155 斉藤一161 広沢安任167 河井継之助172 山本覚馬180 新島穣187 新島八重203

会津藩はなぜ「朝敵」となったのか。戊辰戦争の悲劇はなぜ起こったのか。松平容保、山川浩、松江豊寿ほか苦難に立ち向かった敗者たちの生涯から、勝者の視点を中心に語られる幕末史に斬り込み歴史の真相を問い直す!

会津藩出身や、関連した人たちの話で、徳川幕府に仕えていたのが、薩長による倒幕の動きに徳川慶喜が大政奉還し、戊辰戦争が勃発すると、大将の徳川慶喜が逃亡し、目の敵にされたのが会津藩でした。京都に公家を置かず、兵器の近代化も遅れ、戊辰戦争では負けるべくして負けてしまいます。明治以降、戦争が終わるまで、長州閥の下で、優秀であっても陸軍では出世しないという冷遇を受けるという状況だったそうです。

戊辰戦争後は、過酷な現在の青森県の斗南に藩を移されたりして苦しい生活を強いられたという。

その後、薩摩の暴発による西南戦争では、会津藩出身の者が駆り出されて、最新の兵器で戦い、戊辰戦争とは立場が逆転するという運命のイタズラも。

しかしながら、この本のキーマンは会津藩の人たちではなく、徳川慶喜と 河井継之助の対照的な二人でしょう

司馬遼太郎の小説「峠」の主人公である河井継之助はカリスマ性があり、小藩の長岡藩を財政を大赤字から黒字に転換させたり、外国の武器商人から最新式の兵器を買い、戊辰戦争で攻めてきた数で圧倒的優位は官軍に善戦し、一度は奪われた長岡城を取り返す離れ技まで披露します。

しかしながら、著者は河井をこう評します。

意外かもしれないが、実は河井に対して深い恨みを抱いた長岡の人々もいたのである。理由は簡単だ。河井が若き藩主を説得して武士の意地を貫いたため、長岡そして多くの村が焼け野原になってしまったからである。

一方で、慶喜に対しては、

慶喜は、官軍の江戸城総攻撃という理不尽な行動に対し、徹底的に恭順の姿勢を貫いた。別の言い方をすれば、武士の意地は貫かなかった。...武士の意地を通さなかったことによって、江戸百万の市民は焼死することもなく焼け出されることもなかった。

たとえば映画やドラマなら、河井の話のほうが圧倒的に面白く、共感できますが、現実的に地元民からしたら、慶喜の対応のほうが、印象は腰抜けであっても、平和を維持したのだから、人々のくらしの為になっているということが言えるでしょう。

その後20世紀において、第二次世界大戦では、敗戦国となった日独伊同盟で、連合国に最後に降伏(1945.8 死者310万人)した日本は、敗戦濃厚にもかかわらず降伏を渋った為に、地獄のような沖縄地上戦、全国の主要都市への空襲、広島・長崎への原爆投下という悲劇を経験しました。このとき、最初に降伏したイタリア(1943.9 死者40万人)の被害は、ドイツ(1945.5 死者430万人)や日本に比べて市民の犠牲や街の被害が軽微だったことは、言うまでもありません。

こうしてみると、過去に学べなかったのが残念としかいいようがないですね。

それではまた。


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