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宗教を物語でほどく 島薗進~読書記録253~

2016年、宗教学者で、東京大学名誉教授、上智大学教授の島薗進先生による著書。

国内外の文学作品を独自の、宗教学者としての目線で語られている。

アンデルセン、宮沢賢治のように、熱心なキリスト教徒、仏教徒の立場で童話を書いている場合もあるが、中には(特に日本人の場合)、本人は宗教観というものはなく、普通に書いているのだが、視点を変えると宗教的である
とか、ちょっとした教訓であったりと。捉え方が実に面白いのだ。

例えば、佐野洋子の「100万回生きた猫」
著者は、最後を大往生と表現しているが、仏教に詳しい人が読んだら、輪廻転生を思い浮かべるのではないだろうか。
100万回生きたは、生き死にを繰り返すわけだ。

信仰を持った作家の紹介としては、トルストイ、アンデルセンなどだ。
アンデルセンの「人魚姫」は、「人間には不死の魂がある」という実にキリスト教的な根源がある。
熱心な仏教徒の宮沢賢治は「死を超える」という宗教性を童話で描いている。

この本で知ったのだが、法華経には、「長者窮子」と言う話がある。
それが、聖書に出て来るルカの福音書の放蕩息子の話に実に似ているのだ。

色々観て行くと、本来、仏陀やイエス様が説いたものは、本質的に同じなのではないだろうか?
他者に感謝する。食事の前の感謝、など。
後の宗教関係者が変えてしまった(特にカトリック)という気がしてならない。

他者の存在の尊さというのは、家庭で親が子供に教えようと思っている事、幼稚園や学校で先生が生徒に教えたいと思っていることではないだろうか。
「自分ひとりだけで生きているわけではない」「おかげさま」ーこうした生きていくうえでの基本的な知恵や倫理は、宗教と切り離して教えることの出来るものだ。だから、宗教につなげて論じられることに違和感のある読者もいるかもしれない。
だが、かつてそうした領域、生きていくうえでの知恵や倫理は、宗教と結び付けて教えられることが多かった。例えば「おかげさま」と言えば、生きている他者だけでなく、この世を超えた命の連鎖があることを想い、先祖や神仏へ感謝を捧げるという事になるだろう。一神教であれば、神の創造した全ての命の恵みの中に自己はある、と感じる。
しかし、仏教やキリスト教を始めとする、いわゆる伝統宗教は、近代以降、次第にその影響力を弱めていく時期が続いた。(本書より)

そもそも宗教は、人々に自己に立ち返り、「限りある人間の命」を超える尊いものに目を向けるように促す。では、限りある人間の命はどのように現れてくるのか。それは、「死」「弱さ」「悪」「苦難」と言う言葉で指し示すことが出来る。(本書より)


アンデルセン、宮沢賢治、遠藤周作、著者は出していないが三浦綾子などなど。宗教性がある作品を読む場合、読者はそれほど意識せずに読むのかもしれない。その物語そのものを楽しむというのが一番だからだ。特に、子供向けの童話などを幼稚園、保育園などで読み聞かせる場合は、そうだ。

引用された物語について、一部であるが、紹介したい。

星野智幸 呪文

なめとこ山の熊 宮沢賢治

きりこについて 西加奈子

軽いお姫さま

水の子 キングスレイ

ひかりごけ 武田泰淳

深い河 遠藤周作

イワン・イリイチの死 トルストイ


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