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汝己を知れ

 僕は人と話すことが苦手だ。二人や三人ならまだしも、五人六人七人を目の前にすると、僕は途端に話すことが出来なくなる。昔からの知り合いならお互いの間合いを理解しているから、大人数でもなんとか会話することが出来るのだが、初対面の人やあまり関わったことのない人を前にすると何を話していいのかわからなくなる。つまり僕は「人見知り」なのだ。


なんだろうこの違和感は?


でも、本当にそうか?僕の感じているこの違和感はなんだ?

そんな「人見知り」という記号的なもので済まされるものか。いや、違う。そんなものじゃない。もっともっと何かこうあるはずなんだ。何なんだこの違和感は。


僕は物心ついたころからこの違和感にずっと苦しんでいた。誰かと話しているときも、一緒に何かしているときも。誰かとコミュニケーションをとるときにずっとこの違和感を感じていた。

この違和感は何?

そして僕は小さいころからなぜなぜ少年だったから、その違和感の正体が知りたくてたまらなかった。だから僕は「人見知り」であることなんか忘れ、この違和感の正体を探るため、なるべく多くの人と関わろうと思った。

この違和感が現れるのはいつも誰かとコミュニケーションしているときだったから、必然的に多くの人と関わればこの違和感の正体がわかると当時の僕は考えたのだ。

具体的にどうしたのかというと、小学生から高校生の間に学級委員に立候補してみたり、生徒会長に立候補してみたり、サッカー部のキャプテンに立候補してみたり。人をまとめたり、チームをまとめたり、必然的に人と関わらなければならない状況に自分の身を置いた。

そうした状況に自分を投じていく中で、少しずつだが僕の「人見知り」が改善されていくのを感じた。むしろ、何かの目的に向かって誰かとコミュニケーションすることはぼくにとって得意なことの一つとなった。

しかし、本来の目的であった違和感の正体はわからずのまま。

結局あれはなんなのだろうか。

つかみかけた解決への糸口

でもそうやって今までずっとずっとずっっっっと悩んできたけれど、つい先日やっと解決への糸口が見えた気がした。


この前、僕は9月から所属しているアマチュア劇団のリハーサルに参加した。9月から入団した僕は当然まだその舞台には立てない。だから今回はその公演のお手伝いというか、いわゆる研修生という形でそのリハーサルに参加した。


リハーサル中、僕は演者の皆さんの素晴らしい演技やその場を盛り上げる音楽、照明に僕はただただ見とれていた。

そして、リハーサルはなんとか無事に終了し、演者の皆さんは満足感に浸りながらも少々の悔しさをにじませ本番にむけてお互いに声を掛け合っていた。


そして本来なら僕も演者の皆さんに声をかけ、体調を気遣い、劇中での演技について自分が感じた感想や素晴らしいと思った点について述べるべきだった。


しかし、その時の僕は劇場の端で一人その場で立ち尽くしていた。


なぜだ?なぜあのとき僕は、演者や照明の皆さんに声を掛けることが出来なかった?なぜ僕はずっとその場で立ち尽くしていた?


そう、その答えこそ僕のこれまでの違和感そのものだった。


違和感の正体

僕は冒頭でも触れたように昔から学級委員や生徒会、キャプテンなど周りの人を引っ張っていく「役割」を自分から求めていた。

僕はその行為の目的が、他人とのコミュニケーションにおける自身の違和感の正体を探るためだけだとばかり思っていた。

しかし、実際にはそれだけではなかった。

僕は無意識のうちに「役割」を求めていた。

社会における自分の「役割」だ。

学級委員ならばクラスという社会、生徒会ならば学校という社会、キャプテンならばチームという社会。

そう、僕はそれぞれの社会に属するうえでの「役割」を求めていた。

そして、その「役割」に即した行動を僕はいつもしていた。

いや、その逆だ。「役割」があったから僕は僕自身の行動を規定することが出来た。

つまり、僕の中での違和感の正体はこれだったのだ。僕はただただ人見知りをしていたのではない。僕は誰かとコミュニケーションを行うとき、その場その場で自分にどのような「役割」が与えられているのか、理解することが出来ていなかったのだ。

ではなぜ僕は今まで気づけなかった?

人は生きている以上何かしらの社会に属している。そして、その社会の中で何かしらの「役割」を与えられ、それをもとにその人自身の行動は規定される。「役割」があるから人は行動することが出来る。


では、なぜ僕は今までこれに気が付くことが出来なかったのか。

僕はこれまで学級委員や生徒会に属し、学校という社会の中で求められる自分の「役割」というものが確かに存在した。サッカー部のキャプテンをやっているときも練習や試合に限らず、求められる自分の「役割」が確かにそこにはあった。

しかし大学生となった今、僕は名前のついた「役割」をもっていない。

自分自身に「役割」を与えてくれる社会が存在しない。いや存在しないわけではないが、少ない。だから僕は特定の社会における「役割」を失ったことで、これまで僕がずっと感じていた違和感の正体に気づくことが出来た。


じゃあ僕はあの時、どうするべきだったのか?


僕はこれまで他人に与えられた「役割」によって自らの行動を規定してきた。しかし、「役割」を失った僕は他人とのコミュニケーションの中で自分がどのように行動すればいいか分からなくなっていた。

だから僕は劇団のリハーサルが終わったとき、自分が皆さんに何をすればいいのか分からずずっと立ち尽くしていたのだ。

じゃあ、あの時僕に求められていた「役割」は何だったのか。

多分、あの時僕は演者の皆さんに声をかけ、体調を気遣い、劇中での演技について自分が感じた感想や素晴らしいと思った点について述べるべきだった。僕はそうする必要があった。


ん?あれ、何かおかしい。するべきだった?する必要があった?


それって僕が本当に思っていることなのか?僕の意思なのか?


もし、僕がそれらの「役割」をその場で自覚し行動に移していたとして、その行動に真の自分は存在していただろうか。僕の意思は伴っていただろうか。


多分、いない気がする。おそらくそれは本当の自分じゃない。



真の自分とは?

他人や環境において求められる自分自身の「役割」に気づいたとしても、そこに自分の意思が伴っていなければ、その「役割」を実行する人間を自分だとは認められない。少なくとも僕はそれを自分だとは認めたくない。


なら、真の自分はどこにいる?


もし真の自分が何かをしたいと思ってもそれを明確にする術はない。己の意思をどうやって確かめることが出来るのか。僕は果たして何者なんだろうか。自分とは誰なんだ?今こうして文字を打っている僕は自分なのか?そもそも自分は存在するのか?


でも、こうして自ら選択して文字を綴っているわけだから、おそらく自分は存在する。けれど、僕はその自分の意思を確認することが出来ない。僕の頭で考えたこと、思ったことは自分の意思なのか。これが果たして真の自分といえるのか。


その答えはまだ僕にはわからない…




要約

ここまで僕はいろいろなことをぐちゃぐちゃと書いてきたが、おそらく僕の伝えたかったことがどんなことなのか非常にわかりにくかったと思う。だから最後にもう一度自分のなかで整理して皆さんにお伝えしようと思う。



人は生きている以上、家族や学校、チーム、会社、国など何らかの社会に属している。そして、そういった社会に属している限り、人はそれぞれ何らかの「役割」が与えられている。その「役割」は兄や学級委員、生徒会長、キャプテン、課長といった名前の付くものばかりではない。むしろ、そうではないものの方が圧倒的に多い。程度の差はあれど、人は誰かに自分の「役割」を求め、その誰かは自分に「役割」を求めている。もし、自分にそんな「役割」なんてないと思ったら、それはおそらくきっと気づいていないだけだ。きっとこの世の中のどこかに自分の「役割」を求めてくれる人がいる。もしくはそう信じることで、自分自身も誰かに「役割」を与えているのかもしれない。そうして得た「役割」によって人は自らの行動を規定し、周りから見るとその「役割」はその人自身へとなっていく。

しかし、時にその「役割」と真の自分との差異に苦しむことがある。今の僕がまさにそれだ。社会から求められた「役割」を失い、真の自分の居場所を探している。でも、そうやって悩めば悩むほど、この問題には別の要因があることに気が付いた。

すなわちそれは、真の自分を確かめることができないことだ。

僕は今何を感じ、何を思い、何を考え、何を目的として生きているのか。

僕は自分のコミュニケーションの違和感の正体をずっと探していた。でも、実際には真の自分の正体を探していたのだ。

ただ、これに気が付いたからといって今すぐどうこうしようというわけにはいかない。


真の自分の正体とは何なのか?

この問いは、僕の命が尽きぬ限りずっと自分に問い続けていくのだろう。

何が僕にこの疑問の答えを与えてくれるのかはわからない。どうやってその答えを手に入れることができるのかなんてもちろんわからない。

けれど、いつかは科学的に、工学的にこの真の自分の正体を明らかにしたい。

これは僕が生きる上での野望の一つであり、

そして紛れもなく真の自分の意思である。



最後まで読んでいただきありがとうございます。 皆様から頂いたサポートは今後の自己研鑽のために使わせて頂きます。 僕の書いた文章で何か少しでも感じていただけたら、僕にとってこれほどうれしいことはありません。