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ベイトソンの生きた世界観②     私たちの世界観と環境問題との関係

 では次に、モリス・バーマンの『デカルトからベイトソンへ』を参照しながら、ベイトソンの思想についてみていきたい。バーマンはベイトソンの<精神>について次のように書いている。

 事実、何人かの思想家が、我々の理知あるいは意識的精神は、より大きなシステム、すなわちグレゴリー・ベイトソンの言う<精神>(Mind)のサブシステムなのではないか、と論じるようになってきた。ハイゼンベルクの言う可能性と現実との間に宙づりになった「奇妙な物理的現実」とはまさにこの<精神>をさすのである。ベイトソンはこれを次のように述べている。

  一個の内在する精神は、身体だけに内在するのではありません。体外の
 伝達経路やメッセージにも内在するものであります。そしてさらに、そう
 した個々の精神を小さなサブシステムとして含む、広大な<精神>があ
 る。この<精神>は神にたとえることができるでしょう。実際、これを神
 として生きている人たちもおります。ただしこれはあくまでも、部分同士
 が内部で結びあわさった、社会システム全体とこの惑星のエコロジー全体
 に内在するものであります。

 この考え方にあっては、システムの外に「超越」する存在はない。普通の意味での「神」はいないわけだ。物質を変える(というより物質に浸透する)のは超自然力(マナ)ではなく人間の無意識であり、もっと広く言えば、<精神>である。人間の外の岩や木のなかに霊がいるというのではない。だがその反面、「私」とそれらの「物体」との関係は、身体から離れた精神と、生命を持たない物質との対立的関係なのでもない。それはシステム的な関係であり、もっとも広い意味での生態学的(エコロジカル)な関係である。私とそれらの物体との関係のなかにこそ「現実」がある。(中略)いわゆる分離した「個体」ではなく、そうした「関係」に注目する科学、「参加する観察」とも言うべき現象を問題にする科学。そうしたホリスティック(全体論的)な思考に基づく科学こそが、未来の人間の進化の鍵となるのではないか。

モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』P160 -162

 このようにベイトソンのとらえる世界は生きた世界であり、もっとも広い意味での生態学的(エコロジカル)な関係を説くものであった。
 さらにバーマンはこう続ける。

 ベイトソンの思考方法にあっては、<精神>は物体とはまったく同じに現実(リアル)である。そして<精神>は、宗教的原理でもなければ生気論的な生命力(エンテレキー)でもない。現実の外に超越して存在する神秘的な何かではないのだ。
 <精神>が現実であることを認めるベイトソンの世界観は、それゆえに、錬金術やアリストテレス主義と形式的には同じ特徴をいくつか持っている。たとえば事実と価値を分離しないし、「内的」現実と「外的」現実を分離することもない。また、問題にされるのは質であって量ではなく、大部分の現象は、少なくともある特別な意味においては、生きている。けれども、ひとつの重要な点で、ベイトソンの思想は、聖なる統一という発想から出発するどの伝統的認識論とも異なっている。ベイトソンの体系には、「神」がいないのだ。アニミズムもなければ超自然力(マナ)もなく、我々が「初源的参加」と呼んだものはいっさい存在しない。なぜなら、ベイトソンは、<精神>を、物体のなかに「ひそむ」ものとしてではなく、諸現象の結びつき方と行動のあり方そのものが「帯びる」ものとして捉えているからだ。

モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』P274

 引用ばかりで申し訳ありません。今日の投稿はここまでとします。次回は「サイバネティクスによる認識論」です。


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