ちゃんとご飯食べて寝る!

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最近の記事

「#選挙に行こう」への蟠り

衆院選。「結果」が出ました。さっきルームシェアをしている友人と話していて感じたことを今書いておきたいので。 彼は同調圧力が嫌いだと。「投票しない権利」(彼の言葉では)も尊重するべきだと。 確かに分かります。彼の言ううことは、投票に行けない人・関心を持つ時間がない人・生きるために手一杯で投票する時間がない人もいることを配慮するべきだと。まさにそうだと思いました。ただ、彼の言う「投票しない権利」を尊重することとは「権利」ではなく、さまざまな理由で投票に行けない人のことも知るべ

    • 折坂悠太、フジロック出演辞退に寄せて

      折坂悠太さんは私の好きな表現者です。 この度、フジロック出演キャンセルに際し、折坂さんがTwitterに長文を載せ、悩んだ末の辞退の理由を語ってくれました。ネット記事にも取り上げられ、その見出しは「必要のない分断を生んだ政府への憤りを感じる」といったもの。 それに対し、折坂さんの投稿に対し、「政府のせいにして逃げるな」、「弱虫」、「ダサい」、「政府というわかりやすいところへの責任転嫁」といった返信が。私はこのことを友人(大学で出会ったズッ友!)によって知らされました。その

      • 『映画:フィッシュマンズ』

        フィッシュマンズのアルバムでは「ORANGE」が好き。オレンジは夕暮れの色。まだ帰る前、一緒に遊んでいる誰かがいるとき。歌詞の中の「僕」は「君」を想っての僕であって、まだ「孤独」ではないのかも。言葉をのせる音もひたすら楽しいし。暗さも誰かを肌に感じての暗さに聴こえる。世界がどうとかよりも、「あの娘」や子犬に対している「僕」、「僕」の捉えられる世界がある。 「ORANGE」以降は帰り道から家までのとき。「君」は側にいなくなって、そこにいない「君」を想像することはあっても、ひたす

        • どんどんと、「憧れ」

          私の身の周りの人は、どんどんと、「ギターを弾いて生きていく」と水を得た魚のように自分の生き方を決めていく。ここにきて、どんどんと、私の「憧れ」は手の届く範囲に、まるで叶いそうな範囲に姿を見せ始めているようでなんだか悲しい。 それは、「嬉しい」ではない。私は「憧れ」の空虚さを知ろうとしてしまった。「憧れ」に喰らい付く私の意思の無さに気づいてしまった。「憧れ」が近づくほど、私はそれを手にすることができない、手にしようとしない自分自身の薄さを感じてしまう。そして、手にしようとして

        「#選挙に行こう」への蟠り

          友人であること / 『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』

          宗教。これまで生きてきて縁のないもの。だからこそか「あこがれ」も抱いてしまう。 映画の中で、昨今若者のAlephへの入信率が高まっているとの会話があった。俗世を捨てる。期待できない社会に見切りをつけ、世間に縛られず、地球の中の小さな生命体ということを極限まで自覚して生きる。というような勝手なイメージしか持っていないが、知識がないので勝手に魅力を感じてしまう。 ただ、これは逃避し続けることではないのか。生まれたからには人のためになることをしたい。人のためになることは自分のた

          友人であること / 『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』

          広げる欺瞞と広げようとしない怠惰

          他者に何かを伝える。伝えたいその「何か」は自分にとって、これまで、といっても大学生活の大部分を占めてきた映画である。映画を「中心」になあなあと過ごしてきて、映画を中心に生きていこうと半ば意地になって「社会人」となる私は、映画愛を背負っていこうと考えています。 最近思うのは、映画は何よりも観る人がいなければ成り立たない。作家個人や周辺の人にとってだけの意義もなくもないけども、観る人がいなければ、それが例えずっと後世になってからだとしても、観る人がいなければ自己満足なので、観る

          広げる欺瞞と広げようとしない怠惰

          人が恋しくなるとき

          大切な人は大切にね 嫌なことがあったときとか、暗い考えが巡って悩むときより、それを経て自分の考えがまとまったときに、思い浮かんだ人と話したくなる。一緒に悩みたいというより、一緒に楽しみたいし、一緒に幸せになりたい。弱さを見せたくない自分のエゴでもあるのかと。本当に強い人は嫌になっても悩んでも、それをさらけ出せる人だと思うのだけど。 弱いとこ見せてあげられないよ〜

          人が恋しくなるとき

          表現

          表現ってなんでしょうか。 私は大学で映画を学んでいる。それも、つくる方ではなく、批評する・論じる方の勉強を。悪く言えば二番煎じのことしかできないのだな〜と思っていた。 が、そうではない。そうとは言い切れない。たとえ「二番煎じ」だとしても、それは立派な表現なのである。と最近思いつつある。 村上春樹の処女作「風の歌を聴け」には次のような場面が何度も挿入される。私がこの作品に触れたのは、去年の夏、神保町シアターで上映された大森一樹の映画版が先であった。その場面は映像のイメージ

          hi,

          なんで始めたんだろうか。なにか主張したいことがある訳ではない。読んでもらいたい訳ではない。こんなことを書いて尖っていたい訳ではない。 ただ今私は21歳、大学3年生というモラトリアムの終に立たされている時期。色んな人に会って、色んな話を聴いて、色んな映画を観て、人の悩みだけ知った気になって育ってきました。そんな自分は悩みがないことが「悩み」という、ペラッペラの人間だと感じています。自分には背負う問題も地元愛もなく、どこに行っても誰と関わっても他所者みたいな感じ。共感はできるけ