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友人であること / 『AGANAI 地下鉄サリン事件と私』

宗教。これまで生きてきて縁のないもの。だからこそか「あこがれ」も抱いてしまう。

映画の中で、昨今若者のAlephへの入信率が高まっているとの会話があった。俗世を捨てる。期待できない社会に見切りをつけ、世間に縛られず、地球の中の小さな生命体ということを極限まで自覚して生きる。というような勝手なイメージしか持っていないが、知識がないので勝手に魅力を感じてしまう。

ただ、これは逃避し続けることではないのか。生まれたからには人のためになることをしたい。人のためになることは自分のためにもなる。他者が笑えば自分も幸せな気分になるのだから。人のためになる行為を、人との身体的関係を閉ざした上での個人の精進、祈りのみで行おうとすることは自己満足ではないのか。そんな優しい気持ちを持っているなら、直に人に届けて他者を幸せにして自分を幸せにしたい。

宗教に「身を委ねる」となると、個を喪失する恐れがある。形式主義に陥ったり、教祖の判断の下で行動したら。狂信的とは分かっていても、自分を導いてくれる存在には憧れるし、とても楽だろう。しかも「世界を良くする」という大義名分を背負っていると思い込めれば。そういった怠惰の行き着いた先例がファシズムであると思う。オウムにとっては、麻原という存在に自己を投影し、やがて自己を麻原に委ね、自身の判断を下すことはなくなる。から、あんな事件が起きて宙吊りになった今、Alephは「顔のない組織」と呼ばれている。荒木さんの、サリン事件の後であったら入信していなかっただろうという言葉、映画終盤で謝罪をしなかったことなどが、麻原/オウムという存在と家族の間で揺れ動く、自ら規定する実存の所存の空白が伺える。

本作が故郷を巡るロードムービーであること。(そしてバディムービーでもあり、「友人」というか恋人のようにも見えてしまう2人の関わりが映されていること。)家族についての会話、家族との交流を「物語」の「転」としていることは、オウム/地下鉄サリン事件を扱いながらも、その問題の根本である不安定な実存についての映画でもあるのだと強く感じた。さかはら監督の荒木さんとの接し方は、「友達である」という姿勢を崩さない。荒木さんも次第に笑顔が増え、家族の話をし、2人の間に生じた対話がカメラに捉えられている。その隙間を突く、さかはら監督の重い叱責と問いは、憎みのみで他者を排除するのではなく、荒木さんと彼をここまで「陥れた」オウムに対して、理解する姿勢を惜しまないからこその言葉として、観客にまでも思考を続けることを促す。オウムと、犯罪組織の幹部としての関わりでなく、荒木さんと、「友人(であろうとする者)」としての関係が貫かれている。「被害者」と「加害者」のみでお互いがお互いを規定していたからこそ、さかはら監督との交流が、事件から20年経って初めての被害者との交流としてしまった理由だ。友人であることはその人を個人として敬うこと、親身になって叱ること、理解しようとして理解してもらおうとすること。

誰が麻原を、松本智津夫その人として捉えただろうか。そうして事件に「深く」関係した13人は2018年に死刑となった。荒木さんのいう「教祖の言葉から事件について述べられていないので私は真相について答えることができない」という言葉は逃げのようにも感じるが、彼が処刑された今、本当にオウムについて知っていくことが難しくなった。語ることもますます難しくなるのではないか。献花のシーンで、人を押し除けカメラを向けフラッシュをたくメディアには、「友人」であろうとする姿勢はない。それでも、「あくまで私(他者)の言葉」として表現して、受け止めて見極めていく。ようにしよう。


雑筆となってしまった。テレビのバラエティが流れる喫茶店で。観客を似せた笑い声や歓声が編集に乗せられ、観る者の観る感情を規定している。その中でも「自分」であること、他者(彼らが発する表現)には「友人(としての表現)」として関わっていきたいなと。「あこがれ」は陶酔ではなく、あくまでも自己の進みうる一つの指針として。

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