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折坂悠太、フジロック出演辞退に寄せて

折坂悠太さんは私の好きな表現者です。

この度、フジロック出演キャンセルに際し、折坂さんがTwitterに長文を載せ、悩んだ末の辞退の理由を語ってくれました。ネット記事にも取り上げられ、その見出しは「必要のない分断を生んだ政府への憤りを感じる」といったもの。

それに対し、折坂さんの投稿に対し、「政府のせいにして逃げるな」、「弱虫」、「ダサい」、「政府というわかりやすいところへの責任転嫁」といった返信が。私はこのことを友人(大学で出会ったズッ友!)によって知らされました。その友人は「マジでむかつく!」と。

折坂さんのいった「必要のない分断」が正に目に見えて現れていて、人はここまでも汚いものなのかと感じました。なんで、こんなことを言ってしまえるんだろう。折坂さんが悩んだこと、悩んだ時間をそっちのけで、明らかに中立公平な理解に欠ける返信の数々。

音楽はどんな人も楽しめる、それがライブであればどんな人も同じ空間で溶け合える素晴らしいもの。思い想いに、好き勝手に身体を動かしているのに、皆同じ体験を共有できる素敵なもの。その表現を背負って日々舞台に立っている人が抱える想いは、ただつくられた音楽を享受するだけの私には計り知れないものです。「誰もがその人なりの生の実感を持ち、それが守られる社会」を望む「折坂悠太」は、真正面から表現の根本に迫っていこうとしているのだと、今回の声明で私は改めて実感しました。

そんな人間に対し、なぜ「攻撃」してしまえるのでしょうか。SNSは他人が他人であることに疎くなり、自己の境界をぬるぬると広げてしまうものなのでしょうか。そうして知らず知らずのうちに脱中心化を怠った上に生まれてしまう自己は、ズケズケと他人の空間に足を踏み入れ、それでも尚、自己の空間の中にいると錯覚してしまうものなのでしょうか。折坂さんの公的な声明に対し、個人的な意見、その中に含まれる「ダサい」等の悪口が、平等な土台に乗ってしまうのがSNSの目指したものなのでしょうか。

そうして、個人の指標で、狭く浅い知識で全てを判断し評価を下してしまう。ソクラテスを死刑にした頃から人間は何も変わっていないのでしょうか。先日観賞した『パンケーキを毒味する』では、菅さんは学者の論文も読まずに学術会議への任命有無を判断したという批判がありました。折坂さんの今回の件も、批判、悪口を言った人の中に、折坂さんの音楽を聴いた人がどれだけいたでしょうか。その人のこと、行動、作品を無視して、あたかも自分は全てを知っているかのように、公的な場にも成りうるSNSで意見を言ってしまう。自分は全能であるのか、または自分の発言の責任を自覚していないのか。SNSは人が繋がり広い世界を作り出すものだと思っていたのですな、現状をみると、なんて狭い世界を作ってしまったんだろうという印象です。


返信の一つに、「清志郎は行動して政府への怒りを表現したのに、逃げているだけ」といった内容のものがあったことにもショックを受けました。清志郎だって折坂さんの判断に文句は言えないはず。現代は清志郎も体験しなかった未知の恐怖に包まれています。そんな状況でこそ個人の判断をしっかりと固めた、悩み続けた「折坂悠太」の文章は、私にとって重いものなのです。



今思うところはこんな感じです。良いものは良い。悪いものは悪い。隣の人が笑えば私も嬉しいし、隣の人が泣いたらら私も悲しい。これこそ真理であり、常にそのことと向き合っていく。どんな場所でも、どんな人といても、どんな媒体の上でも、私は私であるために、私が誇れる言動をおこなう。決意表明でこの文章を締めます。

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