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表現

表現ってなんでしょうか。

私は大学で映画を学んでいる。それも、つくる方ではなく、批評する・論じる方の勉強を。悪く言えば二番煎じのことしかできないのだな〜と思っていた。

が、そうではない。そうとは言い切れない。たとえ「二番煎じ」だとしても、それは立派な表現なのである。と最近思いつつある。


村上春樹の処女作「風の歌を聴け」には次のような場面が何度も挿入される。私がこの作品に触れたのは、去年の夏、神保町シアターで上映された大森一樹の映画版が先であった。その場面は映像のイメージとしても鮮烈に思い出すことができる。

「お腹がすいた」ことを表すために少年はお腹に手を当てる。それが表現なのだ。手を当てる表現をしなければ、少年はクッキーと牛乳をもらうことはできない。これを具体例として、頭の良さそうなおじさんが語るテレビ番組のような場面。人間は表現をしてコミュニケーションを取る。そうしなければ生きられない。表現することで人は生きている。生きていれば表現してしまう。


もう一つ。最近カリスマと謳われるようなバンドの方々とその友人たちと呑んだ。一緒に呑んだというよりは、なぜか自分がその場に居合わせた、というような感じだった。私は彼らのことを、どこか「憧れ」のような気持ちを抱いてしまう、自分とは違う「すごい」人たちだと思っていたのだろうが、実際に同じ場にいて舞台の上にいない彼らを見ることで気持ちを改めた。彼らは、たとえば曲を作って歌ってギターを弾いて、音楽という形で「表現」をする人間というだけである。呑みの席では、自分と同じく語るという手段で表現をする。

だが、彼らはやはり「すごい」。「憧れ」が消えたわけではない。日頃から音楽という形でどう感情を引っ張り出すか考えているから、言葉を次々と発し、思ったことをすぐに出す彼らは、やはりかっこよかった。彼らの言葉は、悩んで、身体的にもがいて音楽に乗せようとする表現をしているからこそ身に染み付いた表現なのだろう。私は彼らを前にして、発する言葉が少なくなっていた。

ただ彼らの感情に、時々思慮が浅いな〜とか感じたりもした。その点で単純に「憧れ」てはいられないという気持ちになった。完璧なカリスマではない。多くの人間と同じように空回りもするし、短絡的な部分もある。だが、彼らは表現することと音楽を通して向き合っている。自分は音楽ではない自分の表現の形で、表現をし続けていかなければならないのだと戒められた。



人間は表現をしなければ生きられない。しかし、表現を音楽や映画、小説といった芸術にのみ見出そうとして、自分は遠目でなあなあと生きてはいたのではないか。表現とは、自己を他者に伝えること。そうすることで自己は確立していくのだろう。ならば、自分の声、言葉、文章、身体の動き、他者に伝わる全ての要素にきちんと向き合おうと思った。私から出るすべてが立派な表現なのだから。




ここに書いている文章も、誰かにやがて読まれるかもしれない。誰かに読まれなくとも、後の自分が読むかもしれないし、「読まれる可能性がある」と思って書くことで客観視できる気もする。ので書いた。思ったことを整理して、考えただけでは終わらせないで一度言葉にしてみよう。そして私を私たらしめたい。

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