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どんどんと、「憧れ」

私の身の周りの人は、どんどんと、「ギターを弾いて生きていく」と水を得た魚のように自分の生き方を決めていく。ここにきて、どんどんと、私の「憧れ」は手の届く範囲に、まるで叶いそうな範囲に姿を見せ始めているようでなんだか悲しい。

それは、「嬉しい」ではない。私は「憧れ」の空虚さを知ろうとしてしまった。「憧れ」に喰らい付く私の意思の無さに気づいてしまった。「憧れ」が近づくほど、私はそれを手にすることができない、手にしようとしない自分自身の薄さを感じてしまう。そして、手にしようとして生活を捧げる彼らと自分を比べてしまう。

「憧れ」とは何か。何だったのだろうか。21年生きてきて、自分の目指すものが、進もうとしたい道が分からなくなった。今までなんとなく分かっているつもりでいた自分の「憧れ」が存在していないことに気づいた。ギターを弾く、歌を歌う、演じる、映画をつくる。そうやって表現して日々のご飯を食べていくことは、自己満足でしかないのではないか。自分の表現を芸術として他者にみせることは、誰のためにも、何のためにもならないのではないか。自分を満たすために芸術と呼べるものをつくる。そうして受け手を獲得し、その人たちから施しを受けてご飯を食べる。それで世界を今より少しでも生きやすい環境にできるのだろうか。

自分の「憧れ」とは自分の表現を獲得し、それが他者へと周り、循環し、世界を優しくする、そんなものだ。大それているが、大それたくらいでないと「憧れ」ではない。自分の存在が他者にとっても掛替えのないものとなる。それくらいの自分の存在感が「憧れ」だ。だから、自分の歌を歌って生きていこうとする人は素敵に映る。

私の夢、夢としていたものは、映画館を作ること。それは人を繋げる場を作ることが自分の表現であり、人が生活を捧げてつくった映画を、そのエネルギーごと届ける表現ということ。そんなもの、甘い汁を吸って、他者の努力を食いつまんで自分のご飯を食べることに過ぎないのではないかとモヤモヤしてしまう。そして、自分で何かを生み出したい、自分から何かを出して爆発させたいといった感情も捨てきれない。「憧れ」は欲張りに揺蕩う。私の道はずっと曲がっている。ココと決めたらもう身を投げ出すだけで済むのに。それが難しいほど自分の道も太い一本の道となり、欲張りな「憧れ」を手にできるのだろう、と考えるしかない。

「憧れ」はどんどんと近づいて、私の範囲に姿を見せた。近づくほど見上げなければならない、見渡しきれない広大さに気付く。気づいた以上は、もっと自分の表現を肝に据えて「憧れ」を消化し続けていく。

終電を逃し、サウナに駆け込んだ後に筆。

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