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犬を見て「犬だな」と思ったという言葉への安心感

他人が自分の書いた文章や話したことに対して論理的に分析する、それを見たり聞いたりする、という場に行った。その空間はとても羨ましく面白くたのしかった。他人の目を気にしているのではなく、ただ自分がどうあるかというのを教えてもらうというその体験、そしてそれを多数の人に見てもらうというのは単純にいいなと思った。

自分のことを誰かに知ってほしいとか理解してほしいとかそういう気持ちが強いことに気づいた。もともとそういう気持ちがあるから写真を撮ったり文章を書いたりしてきたのだろうけど、「個人的なこと」への抵抗はあって、それでも良いのだという先人たちの背中を盾にしている気もする。

日記を書いた時点で、それは誰かの目に触れる可能性があるということを3回続けて違う人に言われた。わたしが過去に手帳に手書きで書いてきた日々は、今のわたし、つまり他人からは果てなくどうでも良いこともたくさん含まれていて、何があったかが大事なのではなくて、その時にどんな感情を持ったかということしか意味の中には残らないのかもしれないな、と思う。瀬戸内海を渡る船に乗っていたことが重要なのではなくて、あの時見た海に対しての気持ちのほうがずっと今のわたしには残っている価値があるような気がする。

わたしが誰かの文章や写真を見たときにその人の人となりを想像するように、わたしに対してもそういうことを言ってもらうことが増えた。いいとか悪いとかじゃなくて、その先に見えたわたしがあなたの好きなわたしであって、わたしがそうでいたいわたしでいたらいい。考えるのをやめなかったら少しずつ思考は進んで、何かにぶつかって形を変えて向きを変えて思いもよらなかったところに進んでいく。この繰り返しが好きで、これからもそれを楽しく感じたい。もっともっといろんなものが見たいよ。

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