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確かにあの頃、(ほぼ)僕ら全員の全てが、あの狭い校舎に詰まっていた。〜映画『少女は卒業しない』〜(ネタバレ)

 今でも『桐島、部活やめるってよ』を観た時の衝撃を覚えている。

 朝井リョウ原作の小説を映画化した、『桐島、部活やめるってよ』(2012)を初めて観たのは大学2年の春。パンデミックの最中、何もすることがない自分はひたすらに映画を観ていた。その中でもこの映画は僕の中で強烈な印象を残している。


 邦画に限って言うと、「高校生活」という題材は本当に描くのが難しいと思う。日本人のほとんど誰しもが経験し、そして人によって面白いほどにその捉え方が大きく異なるから。

 それ故に、あまりに曖昧模糊な表現に徹し、いわゆる「あるある」をやり過ぎると、突然その映像は陳腐になり、再現VTRのようになる。だから高校生活をテーマにした映画は必然的にその独自性を問われるのだ。

 特に最近では、数々の優れた(売れた?)高校生活を描いた映画が登場した。いじめをテーマにしたもの、多様なセクシュアリティをテーマにしたものなど、あくまで一般的な高校生活をとにかく様々な視点で見つめることに徹した作品群だ。熱血教師の涙の説教や野球部が甲子園を目指すなんてストーリー、現実にある分にはいいが、わざわざ観たくなんてない。それに既に描かれ過ぎた。


 『桐島、部活やめるってよ』の話に戻るが、人並みに「高校映画」を観てきた僕が衝撃を受けたのは、その「グロさ」だ。

 高校生活とは、まるで人生だ。クラスで人気者になることは本人にとっても、その周りにとっても、まるで人生の勝者になることのよう。羨ましがられ、そして疎まれる。反対にクラスでの落ちこぼれは人生の敗者のように見られる。気を使われたり、そのような生徒だけで群れることができればまだいい方で、ほとんどの場合は誰からも相手にされないのがオチだ。

 弱冠16〜18歳でそのようなグロさに立ち向かわされる高校生はその3年間を通して強くなっていく。しかし皮肉なことに、高校生活にはほとんど悪者がいない。野生の動物社会のように上に立つ奴らがいて、下で群れる奴らがいる。ただそれだけのことだ。しかし当の高校生はそれが理解できない。仕方のないことである。サバンナのシマウマたちは、賢く移動すればライオンに食われなくて済むことを知る由があるか?

 シマウマとライオンが切磋琢磨して共に生きてはいけないように、キラキラのバスケ部のレギュラーメンバーと、クラスでろくに認知すらされていない映像研究会の端くれなど、当然関わり合うことはないし、仲良くやっていけるはずがない。しかし、高校という特殊な閉鎖環境故に、必ず彼らはお互いが目に入るし、多少なりとも意識する。決して「無敵」ではない陽キャグループと、決して「惨め」ではない陰キャグループの実態を極めて共感性が高く描けているところが素晴らしい。

 そして、この映画はいわゆる「陽キャ」と「陰キャ」だけでなく、「陽キャといることでしか自分に価値を見出せない奴」や「陰キャに憧れる陽キャ」などといった、めったに可視化されないがたしかに存在した生徒グループを浮き彫りにした。そういった意味でも評価されるべきなのだ。


 それから11年後、2023年にまたも朝井リョウ原作の「高校映画」が届いた。それが今回僕が鑑賞した『少女は卒業しない』(2023)だ。

 『桐島、部活辞めるってよ』は高校生たちの何の変哲もない日常が、ある一つのインパクトによって、少しずつ綻んでいく作品だった。そして『少女は卒業しない』の舞台は卒業式前後だ。高校の終わり、青春の終わりという、人生の岐路に立たされた彼ら彼女らはいかなる行動に出るか。

 『桐島〜』がスクールカーストを基盤とした群像劇だったのに対し、本作ではそれほどまでにスクールカーストは強調されない。意図的なハブりや、生徒間のパワーバランスはあまり重要視されていない。

 本作に比べれば、青春のグロさを炙り出した『桐島~』はほとんどファンタジーに近い。現実では陰のグループは陽のグループと深く関わることはほとんどの場合ありえない。対して『少女は卒業しない』では、いわゆる陰の作田詩織は、いわゆる陽の後藤由貴とは一切関わらない。その部分は映画内では描くことができただろうが(例えば作田の卒業アルバムに後藤がメッセージを書くなど)、そこはリアルさを追求しあえて関わらせなかったのだろう。そこでもこの映画が「共感性」を大切にしていたことが伺える。


 それでもこの作品にも、ある種の「グロさ」を感じざるを得ない。しかし『桐島〜』でのグロさとは違う、なんだか背伸びしたグロさ、と言えばいいだろうか、言うとすれば「残酷さ」の方が適切かもしれない。

 先ほど「高校生活は人生の縮図のようなものだ」と書いたが、ここでもそれは言える。多くの人々が長い人生のうちに経験する「別れ」や「喪失」を高校生活と絡め、様々なエピソードを通してダイナミックに描いている。

https://eiga.com/movie/97733/

 ただ、劇中の学生たちが各々経験する「別れ」は、どれも決して珍しい形ではない。特に劇中唯一の継続中のカップルであった後藤由貴と寺田賢介の進路の都合上の別れや、作田詩織の「好きな先生との別れ」は、これを読んでいるそこのあなたももしかしたら経験したかもしれない。

 また山城まなみと佐藤駿の死別や、神田杏子と森崎の「私だけが知る彼の一面の喪失」も、映画の題材としては決して珍しいものではない。

 では、なぜこの映画は我々の心を深く揺さぶるのか?

 それは卒業式前後の二日間という徹底的な時間管理の為されたシナリオと、「卒業式」というほとんど誰もが経験した門出に強烈な記憶を呼び起こされるからとしか言いようがない。僕たちの多くは、高校生活のことを思い起こし、語り合うのが大好きだ。


 純粋な「好き」か単なる憧れか今でははっきりとわかるような、あの頃の恋のこと、こんなに楽しいことが明日もあるのかとわくわくした文化祭初日の夜、まだこんな所に通い続けなければいけないのかと泣いた保健室の風景など、一人ひとりが持つ記憶を嫌でも引き起こされる。青春の美しさと残酷さが、単なる「あるある」では終わらないリアリティを以て映される。そんな彼らの現実と僕らの記憶の前に、観た人たちは何を思うでしょうか。

 『少女は卒業しない』、おすすめです。

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