【エッセイ】海賊ラジオ放送が、ビートルズとイギリスの若者たちを救った話。
以前、『パイレーツ・ロック』という映画を見た。
この映画は1960年代、イギリスにまだ民放ラジオがない時代の話。国営放送のBBCは、ポピュラー・ミュージックの放送時間を一日45分しか流してはいけないという制限をかけており、若者たちは流行している音楽をラジオで聴く手段を失っていた。
そこで、とある男たちが公海上(これはイギリス政府に邪魔をさせないためだった)に停泊している船から、24時間365日ロックを流し続ける放送局を開設。その電波をイギリスに送り、若者たちを狂喜乱舞させた…
というお話。めちゃくちゃ魅力的だし、本当にそんなことがあればいいなぁ…と思っていると、この話、本当らしい。
マジかよ!!と、今日ものすごく驚いたので、この最高すぎるロックな海賊ラジオについて説明してみたいと思う。
1964年、ローナン・オレイヒリーという人物が、自分の営業していたアーティストの曲をかけてもらえなかったということを口実に、オランダが当時やっていた「ラジオ・ヴェロニカ」というラジオを参考にして、先で述べたようなイギリスの境遇を救済するが如く、「ラジオ・キャロライン」という放送局を、イギリス付近の公海に停泊させたフェリーで開設した。
このラジオ局の成功を皮切りに、他にも様々な海賊ラジオ局が続々と開設され、その数はどんどんと増えていった。
この流れに対抗するように、国営放送のBBCも音楽番組を始めるんだけど、そこではレコードを流さずに、ミュージシャンに生演奏させていた。それは生の演奏の緊張感というものが伝わってくるんだけども、やっぱり多忙になればなるほど、出演は厳しくなっていく。
ビートルズはその一番の例だった。しかし、ビートルズに生演奏させることもなければ、野暮な要求もせず、勝手に曲を流してくれる存在、そんな海賊ラジオをビートルズは支援した。当然、他の人気アーティストもそれに続いた。(ここまでの資料リンク)
このラジオ・キャロラインの型を純粋に継承したのが、『ワンダフル・ラジオ・ロンドン』だった。余談になるが、このラジオ局はなんとビートルズの『サージェント・ペパーズ』を世界ではじめて流した局だったらしい。1967年6月1日に店頭に並んだこのアルバムを、1967年5月12日には特別番組を組んで放送した。かなり攻めたラジオ局であることがわかるはずだ。50年経っても「世界最高のロックアルバム」とされる傑作を誰よりも先に手にしたのだ。どれだけすごいのか伝わっているだろうか?
しかし、1964年の年末にはじまったこのラジオは、絶大な人気を誇っていたが、突然、終わりを迎えることになった。
1967年8月14日に、イギリスで海洋放送法が施行。これにより、海賊ラジオは事実上、違法行為となってしまった。ラジオ・ロンドンを含む、ほとんどの海賊ラジオがこれを機に、局を閉めることになった。
この番組の最終回には、ローリング・ストーンズのミック・ジャガーや、ビートルズのリンゴ・スター、そしてダスティ・スプリングフィールドなどがコメントを寄せ、この壮大な「抵抗の歴史」の早すぎる死を悼んだという。そしてこの局で最後に流された曲は、ビートルズの"A Day in the Life"だったという。こんなにも「最後」にふさわしい曲は他にあるか?
おそらく海賊ラジオをやっていた人々のほとんどが、この抵抗は長くは続かないだろうということを知っていたはずだ。そしてこのラジオが終わった1967年という時代…
1967年は「変化」の年だった。音楽が変わり、人々の暮らしが変わり、政治が変わった。ビートルズは『サージェント・ペパーズ』をリリースし、ジミ・ヘンドリックスが世界に名を馳せた。その頃、アメリカなどでは、「サマー・オブ・ラブ」にてヒッピーが急増し、サイケデリック・ムーブメントが本格的になった。若者は自由を志し、「共有と共存」を徹底した。一方で、黒人差別も活発化し、多くの人々が亡くなった。明るさと暗さが表裏一体化した、極めてスリリングな時代だった。
こんな激動の時代に飲まれていった、海賊ラジオ。今でも残っていたら、どんな音楽を僕らに届けてくれていたのだろうか…日本でもやってほしかったぞ!!誰か日本付近の公海で海賊ラジオやってくれないかな、もう俺がやろうかな、あ、でも俺船酔い体質だから無理だな…誰かいませんか…?
また明日!
小金持ちの皆さん!恵んで恵んで!