あんたは何ができるんだい?

長く薄暗い廊下。等間隔に並んだ乳白色の蛍光灯が申し訳ない程度の明かりを灯し、両壁には自分の身長以上の本棚が並ぶ。棚には本がびっしり隙間なくしまわれている。
私はそこを歩いている。
遠くに小さな人影が見えてきた。
私は少しずつ近づく。
人影の輪郭がはっきりしてくる。
老齢、とまではいかないが、白髪の老婆がこちらを向いて座っている。
手前の机にはペン立てに立てられた数本の鉛筆と手元に置かれた金槌、あと一枚の白い紙が見える。
「おや、来たのかい」
その老婆がこちらに気づき声を発した。
その声が掠れてはいるが耳にしっかり届く力強い声だったので私の心音は少し早くなった。
「さぁさぁ、こっちに来な。そこに立って」
私は言われるがまま、そろりと歩みを進め言われた場所に立った。心音はまだ早い。
「なぜここに来たのかは知らないが、まぁそんなことどうでもいいだろう」
そう言うと老婆は手元の金槌を手に取り、机を力強く叩いた。
「さぁ、聞かせとくれ。あんたはなにができるんだい?」
唐突の質問に私はたじろいだ。
何ができるか?何の話だ。
「おや?答えられないのかい?自分のできることぐらい答えられるだろ」
私は高鳴る心音が鼓膜の奥で鳴るのを聞きながら必死で考えた。
私にできること。
「絵が、絵が描けます」
「ほぅ。絵をねぇ。それで?」
「え?」
「それで何ができるんだい?」
「いや、何がと言われても」
「はっ!絵が描ける。それなら私も描けるよ!そりゃどうだい!へっへっへっ」
老婆はペン立てから鉛筆を取るとぐしゃぐしゃと紙に線を描いた。
「こりゃあんただ!」
そう言って見せられた紙には人のような形の線が描かれていた。
「なんだ、あんたは。絵が描けるだけかい。私と一緒だね。なら必要ないね」
老婆は笑っている。
必要ない?私の絵はそんな稚拙な絵ではない。私は少し憤りを覚え声に出した。
「わ、私の絵はもっと上手い!」
老婆から笑顔がなくなり、こちらを睨み立ち上がった。
「ならなぜそう言わない!絵が描ける!そんなことであんたの何がわかる!わからないことを言っているのは誰だ!そのくせ声を荒げ憤るとはなかなかに良い度胸じゃないか!」
老婆は机から乗り出しこちらにつかみ掛かるような勢いで捲し立てた。
私は何も言えずその場で固まってしまった。
老婆は私を再度睨み、そのまま席についた。
「ふん。じゃあもう一度聞くよ。あんたは何ができるんだい?」
私は必死で考えた。それは老婆を怒られせないためではない。そう言われ私に何ができるのか具体的に知らない自分がいたことに気づいたからだ。
私は何ができるんだ?
考えてもまとまらない。私は何かできるようになっているであろう自分をぶつけた。
「私は人の気持ちを動かすような上手い絵が描けます!」
老婆はニヤッと笑った。
そして呆れたようにフッと息をして私を見た。その目は笑っていなかった。
「あんた、嘘はダメだよ。それはあんたの願望かい?そうなりたいのかい?んなものどうでも良いんだよ。私が聞きたいのはあんたは何ができるかであって、あんたの夢なんて聞きたかないんだよ!目標や夢を持つことはいい。ただそりゃ私にとっては何の価値もないんだ!わかるかい?あんたが御大層な夢を語って私の何を満たすんだい?それで腹は膨れるのかい!もう一度聞くよ。あんたは何ができるんだい!」
私は焦った。私ができることなんて思いつかない。私に何ができるのか?できないことだらけだ。
ただ好きで絵を描いてきたが、それが何になるかなんて考えたこともない。
私は何もできない。どうすればいいんだ。
「おや、怖気付いて言葉も出ないのかい」
老婆は呆れ顔でこちらを見てながら手に持った鉛筆でコツコツ机を叩いている。
「何にもできないやつはここにきても意味がない。元の場所に戻りな。ここに来るってことは見込みがあったんだけどね。もうここに来ることはないだろう。その方があんたにとっても幸せだ。考えな。あんたの人生だ」
私は泣きそうになった。何にもない自分を見透かされて、少し優しくされたことに苛立ちながらも心が揺れてしまった。
私はなぜここに来たのか。やりたいことがあっただろう。だからここに来たんだろ?
私は考えた。涙を堪えながら考えた。私は何ができるのか。私はいつも何をして何を感じ、どうなるために動いているのか。
「私は、、、私は人の話や音楽や芸術からイメージを作り、自分の気持ちを乗せて絵を描くことができます」
か細い声で私は答えた。なんとも非力で情けない声で答えた。自己満足の世界だった。
「ほぅ、面白いね。今までの答えよか幾分かマシだよ。あんたはイメージを形にするのかい?私の絵とは違うねぇ」
老婆は椅子の背もたれにのけぞり口もとに鉛筆を当てながら答えた。
「それは何になるんだい?」
「何にもなりません。自己満足です。私がそうしたいからします。私にとって絵は表現のツールです」
ここまで言って初めて自分で気づいた。
大好きな絵は自分を表現するためのツールであったということに。
「面白い。そりゃ私にはできない。ただ、自己満足でよきりゃあんた以外にもそれをできる人間はたくさんいるだろ」
そう言われて、そりゃそうだと思った。私は平凡な人間で何の特異もなければ秀でているものもない。
好きで描いている絵も、私より上手い人なんて星の数ほどいる。
「あんた、今誰かと比べただろ?」
老婆は私の心を見透かすように言った。
「それは良くない。あんたができることは誰かよりできることってことじゃない。あんただからできることだよ」
意味がわからなかった。うまく頭に入らない。誰かより優れているから私でいられる。秀でていないならその他大勢ではないか。
「まだまだここは早かったね。でも楽しかったよ。あんたは考える余地がある。さぁもう一度考えてみな。誰かと比べてのあんたじゃなくてあんたが何ができるのかを」
老婆は笑っていた。口角が少し上がる程度ではあるが今までとは違う笑い方だった。
「その時にまた聞くよ。楽しみだねぇ。あんたは何ができるんだい?」
そう言い終わるか終わらないかの瞬間、廊下の奥から眩い光が私全体を包み込み、気づいた時にはベッドで横になっていた。
目の前には天井が。
外から日が差し込んでいる。
夢だったのか。
リアルな夢。
私に何ができるのか。
またあの場所に行くことはあるのだろうか。
その時私は答えることができるのだろうか。
まだ大きくなった心音は、鼓膜の奥で鳴っている。

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