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少年サッカー、そして怪我のこと vol.2

権力と快楽

 息子のサッカーの監督やコーチの怒鳴り声を聞く度に私が強く思うこと、それは人間の快楽と興奮についてです。この考え方はもしかすると現在の仕事(ビデオゲーム開発)の影響もあるかもしれません。

 人がいつどんなとき、何によって興奮し、時間を忘れ熱中し快楽を得るのかを客観的に考えてみると、行き過ぎた指導における様々な要因のひとつに「権力の行使による快楽と興奮」があると思っていて、指導者が「権力とはなにか」「人権とはなにか」を正しく理解をしないと、いとも簡単に過激な指導や指示へつながるのではないか。

 弱者を支配する、場をコントロールすることで優越感や全能感を感じるという人間の心理は誰の中にも存在し、パワハラ、モラハラ、アカハラ、セクハラ、虐待においても、根っこは全て権力とその使い方の問題だと考えます。

 例えばあなたの目の前に、意のままに動く8人の優秀な少年サッカープレイヤーがいるとします。あなたは彼らに対して絶対的な決定権を持つ。

 このメンバーで試合を行い、あなたの指示によって勝利し、あなたの創意工夫とメンバーの成長により、活躍できるステージや名声が増えていくとしたら、これほど「快楽と興奮」「達成感」を得られる活動は無いでしょう。

 例えば、多くのビデオゲームは短時間のうちに「快楽と興奮」や「達成感」を体験できるように作られていますが、生身の子供(完全な支配下における人間)を相手に権力を振り回すのはそれ以上に中毒性が高いだろうと想像します。保護者は子どもを預けているので批判もしにくいという構造も寄与していると思います(中には激しい指導を望む保護者も)。

 この快楽と興奮の虜となり、過激な言葉を発し、大声で指示を出し続ける指導者は、どんなに熱心でも、どんなにチームが強くても、子供の内面や自発的な力を育むことはない。むしろ自ら発見し、成長する権利を奪ってしまう。なぜならそれは指導者だけが得られるパーソナルな興奮と快感だからです。

 子どもの試合に行くと、まるでプレステのコントローラーを握ってゲームをしているように、夢中になって子どもたちを「操作」している指導者の多いことに驚きます。(休みの日に子どもたちのサッカーの試合を見ていただけると、高い確率でその場面に出会えます)

 指導者は、選手の活動を握る「権力者」です。そして目の前にいるのは、立場の弱い小さな子供たちです。罰で脅したり威圧すれば強く反抗できません。子供たちは不本意でも怒られれば従います。

 しかも、人は指示や命令がどんなに理不尽で意味の無いことだったとしても、それを乗り越えたときにある種の達成感を感じ、ポジティブに捉えてしまうことがあるのは誰でも身に覚えがあるのではないでしょうか?

 「あの辛さに堪えられたからこそ、今の自分がある。あの苦労は自分を成長させた」と。でもそれはスポーツを科学的に捉えたとき、本当に効果的な練習方法とは思えないのです。



 権力というのは、当たり前ですが、相手がNOといえない関係にあるときに発生します。上下関係、支配と被支配の構図。学校で先生と言われる人、社内で上司と言われる人、家庭内で虐待を行っている人間も権力者です。相手がその人に従う他に選択肢が無いとき、彼らは自分の持つ権力を行使している。その空気を作っている。

 権力は非常に注意深く扱われるべきもので、それを持つ者は相応の自覚を持つ必要があるのですが、スポーツ指導の現場を見ていると(少なくとも私の経験では)それを丁寧に扱おうとする大人は少数派に見える。

 ちなみに、日本の場合は中学の部活に入ると、この権力が子供にまで解放される(先輩後輩という、理由なき支配・非支配制の導入です)。私にも身に覚えがあります。おそらくは、子供たちにとってそれが無条件に与えられる最初の権力であり行使する快感を最初に知るタイミングでしょう。

 これはよく考えると本当に恐ろしいことだと思います。

 本来は監視されるべき権力という危うい力が、いつの間にか誰にも管理されずに身の回りに溢れはじめる。止めるべき教育もルールも機能していない。義務教育における部活の存在や、先輩後輩という意味の無いヒエラルキーの押し付けも考え直すタイミングに来ていると思います。

 時代は変わりました。指示通りに動く人間を量産する必要はない。子どもから感情を奪うような行為はやめた方がいい。


続く。

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