【連載小説】私小説を書いてみた3-2
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理世
破裂するような重低音が響いていた。熱気を帯びたライブハウスの空気が揺らされ、僕の身体をその音が取り巻く感覚に思わずよろける。久しぶりのその場所に、僕の心は軽かった。自分がでないステージを見るのが、こんなにも違うものなのかという驚きと、理世のステージへの期待は膨らんでいるのが分かった。一週間生きた自分を誇りにすら思う。生きるために切り崩した貯金もいつの間にか失くなりかけている。そんなことも忘れることができそうだった。
一旦ステージホールからラウンジに出ると、マスターが見えた。「楽しんでってよ」と口の動きで分かった。僕は軽く会釈をするとワンドリンクチケットをバドワイザーに変え、胃に流し込んだ。内臓にしみた麦酒は驚くほど美味く感じた。
ステージから一番遠い黒い壁にもたれて彼女の出番を待った。そう、身体の火照りを感じ始めたときだった。長い髪をそのままで、真っ白なワンピース、何かゾーンにはいったアスリートのような、表現者の雰囲気を感じさせる理世の姿に、前に路地裏で会った時とは別の彼女を見る。
BGMがなくなり、静寂がほんの一時おとずれた。
最初のストロークを神事でも行うように慎重にそれでも力強く振り抜かれた理世の右手、響いたひとつのコードと同時にステージは照明が一気に広がり、その音たちがまるで雨粒でもこぼれ落ちるように弾けば、そのまま僕は彼女の音楽に引き込まれた。
私の生きにくさを笑って
私の生きにくさに眉をひそめないで
誰が決めるのって
あなたのなかの誰にもしたがわないで
五感が五つに別れているのを僕は忘れそうになった。彼女の歌は彼女しか歌えない。他の誰も彼女の歌は歌えないと訳のわからない問答が僕のなかに渦巻いて、また彼女を見つめる。
一瞬目があった気がした。
僕はまるで気がつかなかった。自分のニット帽を脱いで、両手で握りしめているのを。たくさんの糸がほどけるように顔を通り抜ける。その瞬間、我に返ったようにニット帽から抜けただろう毛を払い、深くかぶり直した。彼女は見たのだろうか、僕の頭の毛が半分近くなくなりかけているのを。
あっという間のステージだった。最後の曲が終わってから、すぐに理世は駆けるようにステージを降りた。なんだか泣きそうな顔をしている彼女の長い髪はスポットライトの黄色い光に照らされて形容できないほど美しい。
月が見えた。空の雲は闇のなかで漂い、深い紺色の空間を広げる。秋の終わりの澄んだ空気に謝るように、僕は煙草に火をつけた。身体中の血管を収縮させて興奮をおさめる。他の客は次のステージがあるからだろう、僕は一人裏路地の喫煙所で、ぼんやり黒く見える配管や遠くからわずかに聞こえるステージの音を聞いた。灰皿に煙草を押しつけると焼けるような臭いにむせそうになった。
僕は髪が抜け始めたあの日を思い出す。恐怖や恐れといった類いの感情はもうない。自分が異質であることへの受け止めなのか。今は今日が迎えられたことの達成感で十分だった。突然、坂下先生が脳裏に浮かんだ。
こんな日がいいのかもしれない。
今日は期待はなかった。もう一本煙草に火をつけた。
その時だった。
ライブハウス裏のドアが勢いよく開いて、彼女が、理世が飛び出した。暗闇でも彼女とすぐわかるシルエットに、僕ははっとし、思わず声をかけた。
「ちょっと、待ってよ」
彼女は立ち止まると、何かから逃げ出したいような泣きそうな声で「何ですか」と小さく呟いた。
「ちょっとだけ話ししたいんだけど」
彼女は意外そうな顔をして、やっと向きを僕の方に変えた。
「場所」
「え、」
「場所、ここじゃないとこ」
薄明かりのなかの彼女は力なく答えた。
「ああ、ちょっと場所変えようか、あっちに公園あるし、ちょっとだけ行こうか」
僕はものすごい早口だった。
デパートと雑居ビルの真ん中にテニスコート二面くらいの公園があった。僕は彼女をベンチまで導くと、息ができないくらい呼吸が乱れ、それを悟られまいと首を降って奇妙な仕草を見せた。
「あれ、ライブもう、見てかないの」
「はい」
彼女は、背負っているギターケースをおろしてベンチに腰かけた。
「この前は、あんまり話せなかったけど、君の歌すごい、何て言うか、すごい好きなんだ」
自分の瞬発力のない語彙たちに失望しながらも、彼女と話す機会を与えてくれた何かに感謝した。
「あ、ありがとうございます」
少しだけ嬉しそうな理世の表情に僕は安堵した。
「突然呼び止めてごめんね。でも、今日なんだか決心がついたんだ。君の歌のおかげかな」
「また、バンドすることですか」
「いやいや、違うよ。ちょっと病気に、変な病気になったんだけど、それについての決心かな。なんか意味わかんないよね」
「具合悪いんですか」
「敬語じゃなくていいよ。それがね。とっても変な病気」
「お役にたてたなら嬉しいけど、どんな決心が」
理世はすぐにタメ口になった。
「スキンヘッドにすることかな」
え、と彼女は僕を見つめた。
「病気って」
「うん。髪がどんどん抜ける病気。あ、抗がん剤で脱毛とかじゃないよ」
僕は初めて、いや坂下先生以外に初めて自分の病気について話そうとしていた。理世にそんなこと突然言ったって、彼女も困るだろうと思ったが、そんなことより今夜の決意を彼女に伝えたかった。
ただ、彼女からは思いもよらない反応がかえってきた。
「私は小学六年生の時から」
つづく
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