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【ショートストーリー】6     重たいセーター

 駅を発った東海道線はしばらくありふれた都市の景色の中を進み、徐々に都市的な景観から住宅地、すこしばかり田園風景を窓の外にみて長いトンネルに入る。

 その日、瑛太は高校入試の帰りだった。

 平日の15時台の電車はすいていて、お客はまばらだ。電車が小刻みに揺れ、走行音だけが車内に響く。ボックスシートの向かいには老婦人が座っていた。老婦人の抱えた紙袋から数個の毛玉と、フェルトのような生地が顔を出している。

 瑛太は「寒いから」と言って、朝母から手渡された毛糸のセーターを思い出した。バックを開け、毛糸の固まりをのぞきこむ。入試で頭がいっぱいでどうも着ることも持っていることも忘れていたみたいだった。

 そのセーターは瑛太の祖母が死んだ祖父に作ったもので、抹茶のような深い緑と薄黒い2色で編まれていた。いかにも重そうで、どう好意的に見ても着たいと思えるような色合いではなかった。瑛太はその塊に触れ、今更ながらなぜ持っているのか深く考えもしなかった自分に気がついた。

 寒さをしのぐことよりもお守りのような意味合いで母は朝これを手渡したのだとしたら、なんだか自分がひどく悪いことをしているような気持になってきた。
 向かいの老婦人はまだ目を閉じ、眠っているようだった。

 すべてが終わって安心したのか、急に痛々しいほど老いた祖母の手と、同時に数本の毛糸から編まれる不思議さが瑛太の頭の中をめぐった。祖母はいつでも、自分以外の誰かのために何かを編んでいた。小さく体を丸めて、絶えず手を動かし、時にうまくいかなかったのだろうか毛糸をほぐしたりしていた祖母の姿。

 そういえば、このセーターだって本当は父親が着るはずだったのだけれど、柄が若い子向きだとか、こんな重いセーターは着れないだとか文句を言っていたから誰も着ることがなかった。持ち主の見つからない抹茶色のセーターはいつも古いたんすの一番奥だった。今日がこんなに寒くなければセーターなんて持つこともなかったのかもしれない。

 数学の公式や歴史の年表やらが今の自分の思考によって耳の穴やら鼻の穴から抜けていくようなおかしさがあった。そして、目の前の老婦人が大切に抱えた毛糸を見た偶然に、瑛太は感謝の念すら抱くのだった。

 いつの間にか電車は長い夜のようなトンネルをぬけ、なじみのある風景が徐々に広がっていた。大きなタンクのある工場をぬけたあたりで、突然視界が開けると、太平洋が目に飛び込んでくる。何本もの銀色の尾が、水面を揺らし、遥か向こうには水平線がはっきり見えた。

 瑛太が中学時代、陸上部の時に走りこんだ海岸線。それが何か、自分にひとつの時代の終わりを告げているような気がした。

 「今日は入学試験だったのかい?」
 不意に老婦人が瑛太に話しかけた。
 「あ、はい」
 「私の孫もだよ」

 それまで閉じていた眼からは想像できないほどまなざしは優しかった。
 この老婦人も自分以外の誰かのために、何かを作ってあげるのだろうか。
 橋を渡ると振動のリズムが変わり、電車はスピードを緩め始め、金属が擦れ合う音が車内に響いた。

 瑛太は電車を降りた。帰り道、セーターを着てみたけれどなんだか重苦しくてやっぱりやめた。
 
 でも、その重さの正体になんとなく察しがついたような気がした。

 老婦人は、電車を降りるとタクシーで、崖の上の大きな建物に向かった。そこは支援学校と病院が並置され、病弱児や、重度の障害のある子ども達が病院から学校へ通うことができる。

「良太、今日は高等部への検査の日だったわね。お疲れ様。お母さんが、しばらくこれないから、おばあちゃんが暖かいもの作ってあげるね」

 老婦人は毛糸を見せる。
 良太は眼でうなずいた。

 目線入力した文字がモニターに映る。

「ばあちゃん おれ そのいろやだよー ww」

おしまい

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