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【ショートストーリー】40 君へ

雨が降れば世界が1.5倍繊細に見えた。

聴こえたと言ったほうが正しいかもしれない。鉄の塊が通り過ぎる音の輪郭はいつもより尖っている。雨の音がそれぞれの音に妙な奥行きをもたせた。

足元はどうだろうか。濡れたスニーカーから確実にしみ込んだ雨水をつま先で感じ、けっして気持ちのいいものでないのに、足裏で感じる地面の傾斜と、溝ぶたのなんとも言えない人工的なラインを明瞭な差で感じ取れるのだから不思議だ。

いつもの帰り道は景色を変えていただろう。春の嵐の中に緑の葉は渦を巻いて巻き上がり、雨によって地に戻る。ビニール傘から覗いた世界がこうも変わろうとは。

私は花を持っていた。

地下鉄の改札口のすぐ横にある花屋でそれを買った。
花の種類なんてどうでも良かった。赤とピンクと白色の小さな花。くたびれた背広の中年が花を買うんだから店員はさぞ不思議な心地だったろう。
「二千円くらいで適当につくろってください」
そう伝えるとその女性の店員は虚をつかれたように、また微かにうろたえたように視線を外した。
「何か、お色みや、お花の種類なんかは、いかがなさいますか?」
「おまかせします」
「季節のお花を中心にこちらで考えますね」

母の日のプレゼントだろうか。それとも妻へのものか。そんな予想もあったのか店員は私の左手の薬指をちらっと流し見た。女性のようだとよく言われる私の小さな手に指輪があることが分かったのだろうか、透明な大きなガラスケースを彼女は眺めだした。

店員は花を選ぶことについては若干の迷いをもったが、その後は手際よくまとめていった。

「おまたせしました」
「ありがとう」
私は少しシワのある紙幣を手渡した。
「奥様にですか?」
「ああ、そうかもしれないな」

私の適当な返答に店員はまた一瞬の戸惑いを見せた。それもそうだろう。「かもしれない」贈り物など、この世に有難いからだ。

私は雨を感じていた。
住宅街のなかを歩けば、雨は強まり、側溝に家々の雨樋から運ばれた雨水が滝のように集まり相当な流量を湛えた。

私はある家の前で止まった。
二階建てのありふれたような新築の家。外壁の白色のサイディング材が新しさを物語る。

私はまるで軒先に回覧板でも置くように雨粒がついた花束を置いた。

「虹がでてる」
北の空だった。通り過ぎた雨雲の向こうで、七色が空に滲んだ。空の青に比べれば微かな色合わせであった。それでも心躍るその自然現象に女の表情はほころび笑みが溢れた。

「庭の、シャベルが…1日濡れて……」
いつか教え子達と歌った歌を口ずさんだ。と、同時にギターを弾いていたあの人を思い浮かべた。指のハラが硬くなった手。一緒に過ごした時間を忘れかけていた自分にもう一度優しく微笑む。

外に出たその女はいつもと違う玄関前の変化に気がついた。花束が門柱の横に、なんだかくたびれて休憩するようにたたずんでいた。

それでも拾いあげれば花束はみずみずしく、生気に満ち満ちていた。
女は何かを悟った。

女は何も言わずに花束に手を伸ばしたその瞬間、家のなかから赤ん坊の泣き声が響いた。

「おーいマキ、ちょっと頼む」
男性の声が続いた。

少しだけ時が止まるような気がした。

「あの人……」

マキとよばれた女はつぶやいた。

男は花屋の女性から花束を受け取ると話しかけた。
「賭けをしてるんだ」
「え?」
店員は考えもしなかった言葉に目を丸くした。

「もし、この花をその人がベランダに飾ったら、またその人を愛そうってね」

くたびれた中年の戯言をその女性は聞き流すわけでもなく、妙に神妙な表情を見せた。

「……ていう映画知らない?」

男は笑いながら振り向くと、花を片手に5番出口から雨の街に進みいでて行った。


おしまい






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