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ブレるって悪いこと?ブレてこそ分かるブレてないこと(偶然日記#12)

確かに前回の偶然日記でアートと新規事業の類似性について書いていたつもりだったが、書ききらずに終わってしまったところがあるので続きを書きます笑(指摘されて気づく笑)

しかし話がブワンと逸れるのもnoteを書き始めた今の段階では自分の中ではオッケーとして、まずは書き出すことを重視しよう。

前回の偶然日記では、アートと新規事業の類似性というのは、双方とも「内発的動機が肝である」ということが言いたかった。そして、その内発的動機を持つ難しさを体感した自分のエピソード(Fine Art学科に移って、白いキャンバスを目の前にした時、何を描きたいのか分からなくて立ち尽くす。)を話した。

そこで頭を悩ませるのが、「どうすれば内発的動機を持てるのか?」ということだ。僕はエピソードで書いた通り「さぁ、アートしよう」と筆を手にとった時、今思えば「内発的動機」というものを自分は”持っていない”ことに気づいた。ただし、それから11年、自分なりの探究を続けた結果、自然なスイートスポットを見つられたと感じている。

内発的動機・・・。

いやいや持ってないんでない。皆持っているんです。そもそも内発的動機は目に見えないもんなのだ。僕も内発的動機を追っていた。

キャンバスに何も描けないと思った時からではない。ずっと追っていた。自分のコアの部分に向かって。

無理くり「俺が表現したいのは○○だ!」と絞り出しては、絵を描いたり、「△△だ!」と彫刻したり、「☓☓だ!」と留学したり、「□□だ!」と会社辞めたり。古典や哲学を読んだり。

ずっとそうやって、ブレにブレてきた。あっちこっちに節操なく足跡をつけてきた。あっちこっち行ってた足跡を最近眺めてみたら、

「あれっ、円になってる」

円だから真ん中は何もない。

「それが自分か!」って気づいちゃった。

色んな方向に歩いてたつもりが、実は何かの周りを回ってたのだ。

ブレ続けたおかげで、足跡を色んなところに残せたおかげで、真ん中が浮き上がってきた。

内発的動機の見つけ方。

その時々で無理くり言語化しながらアウトプットして晒すこと。「ちょっと上手くいかないな」とか、「ちょっと違うな」と思っても、一階言語化してアウトプット(その形は文字でも絵でも音楽でも)を無理やりする。その後、また言語化をやり直して、またアウトプットする。

それを繰り返し続ける。器用に円が描ける人は早く中心が見つかるし、不器用な人は中々円にならないから中心を見つけるのに時間がかかる。でも不器用な人でも色んな方向に歩き続ければ、その内、空洞が見えてくる。

そんな時は、ペンネームを使って、友達に知らせず、noteを書くのがオススメだ。もう一人の自分になれる。今までの関係(つまり周りの視線)を断ったピュアな自分を見つけることができる。

続ければ続けただけ、もう一人の自分感、ピュアな自分が湧いてくる。

まず書こう。ペンネームだし周りの目を気にする必要なんかない。読まれなくても、そもそも自分のためだし、自分の足跡を振り返るために書くだけだから問題ない。自分のためだけで十分じゃないか。

と、書いているアナタ。

そんなあなたが僕はスキです。

そんな話を会社で周囲にしゃべり続ける今日このごろ。

(おわり)

雄手舟瑞の過去の話をベースにしたフィクション「雄手舟瑞物語」と雄手舟瑞の今を書くエッセー「偶然日記」を毎日交互に更新しています。よろしければご覧ください


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