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神経質なぼくがモノの初期傷を気にしなくなった4つの理由

生来のクジ運が悪いのか、それとも日頃のおこないが悪いのかはわからないが、ものを買う時、よく傷がある個体に当たってしまう。それが気にならない性質ならまだいいのだろうが、ぼくはわりと神経質で、傷や汚れ、ほつれなどの“歪さ”が人一倍気になってしまう性格をしている。

たとえば、電化製品でいえば、いま使っているiPhoneには購入時から背面ガラスに傷がついていたし、MacBookにも底面のアルミに「く」の字のような引っかき傷があった。また、衣類でいえば、レザーのトートバッグに日光を当てるとうっすら見えるような染料のムラがあったり、チノパンツのベルトループの縫製が雑だったりといったこともあった。

これが使っているうちについてしまった傷なら、まだ愛着が湧くというのも頷ける話だが、どれも購入時からの初期不良なので、以前のぼくなら「なぜ自分に非がないのに泣き寝入りしなきゃいけないんだ!」という思いが先立って、販売元に返品交換を申し出ることも多かった。

だが最近では、本来の用途で問題なく使えるのであれば、多少歪なところがあってもあまり気にせず、できるだけそのまま使っていくことにしている(先述したiPhoneもMacBookもトートバッグもチノパンツも、使用する上ではまったく問題がないので、返品交換をせずに愛用している)。

神経質なぼくがこのように考え方を変えたのには、以下の4つの理由がある。

1.自分以外の誰も気にしていないから

はじめからついていたものであれ、傷や汚れが気になるというのは、結局のところ、ぼくのなかだけの問題である。最も身近な存在である家族も含めて、自分以外の他人は、ぼくが使っているものの細部まではいちいち見ていないし、気にもしていない。たとえば、もし妻に「このまえ買ったiPhone、目を凝らしてよく見たら背面ガラスにちょっとだけ傷がついていたんだ」という話をしたとしても、「ふうん、それは残念だったね。……で?」と返されてしまうのがオチだろう。

iPhoneの背面ガラスに小さな傷があるからといって、明日世界が滅亡したり、戦争が起きたりはしない。あくまでもぼくの問題でしかないのだから、自分の受け取り方ひとつでどうとでもなるものだ。きちんと動作しないとか、見た目の印象に著しく影響するほどの損傷があるとかでないかぎり、歪さを気にしすぎるのは完全に不毛なのである。

2.手段と目的が入れ替わっているから

歪さが気になるのは、自分のなかで手段と目的が入れ替わっているからだ。iPhoneを例にして続けると、本来、iPhoneを所有しようと思った目的は「生活をより便利にするため」であって、「iPhoneを所有すること」はあくまでもその手段でしかない。それなのに、いつの間にか「iPhoneを所有すること」自体が目的に替わっていて、その目的を達成するために、「自分自身が満足のいく、綺麗な、傷ひとつない美しいiPhoneを所有すること」が手段になってしまっていたのだ。

これでは、いつまで経ってもiPhoneで生活をより便利にすることはできないだろう。傷があろうが汚れていようが、そんなことは気にせず、本来の目的のためにiPhoneをフル活用するほうがよっぽど有意義である。

3.縁あって自分のもとにきたものだから

iPhoneは世界中に何十億台も存在している。そのなかで、東アジアの極東にある日本という国の関西地方の片田舎で暮らすぼくが、たまたま機種変更のタイミングを迎え、たまたまスケジュールが空いていた休日に近所の携帯ショップに赴き、たまたま在庫のあったこのiPhoneと出会えた確率を考えると、それは天文学的な数字になるだろう。そして、その果てしない確率でぼくの手元にやってきたiPhoneの背面ガラスには、よく見ると気になる小さな傷がついていた。ならばもう、これは完全に「縁」である。

運命論になってしまうが、ぼくがこのiPhoneを引き当てたことは、もはや神とか仏とか人智を超えたなにかによって最初から決められていたと考えるしか説明がつかないくらいの、気が遠くなるほど途方もない確率を超えた奇跡の出会いなのだ。であれば、小さな傷があるからといって、返品交換をしてその縁を断ってしまうのは、なんだかもったいないことのように思えた。

4.その向こうにたくさんの人が関わっているから

たとえば、「iPhoneをつくっているのはどこか?」と問われた時、ぼくたちは「アップル」と答えることがほとんどだと思う。だが、実際にはiPhoneをつくっているのはアップルではない――否、アップル“だけ”ではない、といったほうが正しいだろう。

iPhoneをデザインしているのはアップルだが、組み立てているのは中国のフォクスコンに代表されるEMS(電子機器の受託製造サービス)工場である。こういった工場があってはじめて、iPhoneはiPhoneとして世に出ているのだ。しかし、ではアップルとEMS工場だけがiPhoneを作っているのかというと、それもまた否である。組み立てているのはEMS工場だが、iPhoneに使われている部品などは、東芝や日立、村田製作所といったサプライチェーン企業がつくっている。これらの部品があってはじめて、iPhoneはiPhoneとして成立するのだ。しかし、ではアップルとEMS工場とサプライチェーン企業だけがiPhoneを作っているのかというと……あとは以下略でいいだろう。

また、もう少しミクロな視点で見てみると、そもそもiPhoneをつくっているのは「企業」ではない。その企業で働く「人」たちだ。彼らがいなければ、そもそも事業は成り立たない、だが、その人たちもまた、ひとりで生きているわけではない。その向こうには彼らの家族や友人、もっといえば、彼らが食べる食材や着る服をつくる人、それらを売る人など、いろんな人たちが無数の数珠つなぎのように関わっている。

このように、ぼくたちは、たくさんの人たちによって生かされている。ここまでiPhoneを例に挙げたが、iPhoneだけでなく、衣類も、娯楽品も、食べ物も、住居も、なにもかもが同様である。ものが溢れた現代では見失いがちだが、ぼくたちはまず、自分が全部の一部であることを知るべきである。

いまぼくが所有している、背面ガラスに初期傷のあるiPhoneを見て、これをつくるために関わってくれた、あらゆる人たちとその営みに思いを馳せる。すると、とるに足らない、使用するうえでなにも問題のない小さな傷ひとつを気にしている自分が、なんだかカッコ悪く思えてくるのだった。

おわりに

ここまで、神経質なぼくがモノの初期傷を気にしなくなった4つの理由についてご紹介してきた。かなり長いうえ、最後のほうはスケールが大きすぎてトンデモ展開になってしまったが、これらの気づきがきっかけとなって、いまでは以前より神経質な部分はだいぶ軽減されたように思う。

ものの本質は、「所有すること」ではなく、「使用すること」にある。たとえ多少歪であったとしても、いろんな人たちの営みを経て、縁あって自分のもとに来てくれたのだから、そのことに感謝の気持ちを忘れず、大切に、丁寧に、慈みながら愛用していきたい。

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