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ソムリエからレストラトゥールに

ホテルマンになりたいともソムリエになりたいと思ったことは全くなかった。高校時代はトロンボーンに情熱を掲げていたので単純に蝶ネクタイの制服が着れるホテルでアルバイトしたい、そう思っただけだ。

しかし、プレイヤーの世界はそれほど甘いものではない。自分の才能も無かったのだが「女性はピアノ教師くらい出来て生活をみてもらえるような人を探しなさい。」関西では当時名の通った師匠から言われたことに何か違和感を感じ、個人レッスンも止めてしまった。

ホテルマンを目指すきっかけは当時アルバイトしていたホテルの所属長から「朝食アルバイトスタッフは、他のホテルの朝食を見てきて感想を述べろ」と言われたことがきっかけだ。京都の主要ホテルの朝食ブッフェを片っ端から訪問した。そのうちに自分が嬉しい、心地よいと感じるサービスを実践する事に楽しみを見出すことになっていった。このころから物事を批判的に見るのではなく良いところ探しをしなければ気付かないことが多くあることを知った。

そんなこんなで一流を知るということで先輩たちと訪れたニューオータニ東京のレストラントゥールダルジャンだった。紺碧のエントランスを抜けるときらびやかなダイニング。スーツは着ていたものの周りはタキシードとドレスの紳士淑女。ダイニング中央のテーブルに案内された。晒し物だと思うくらい場違いだった気恥ずかしさを鮮明に覚えている。しかし、ギャルソン、ソムリエのスマートなサービスと会話に惹かれ、あっという間の3時間半だった。この経験はホテルマンを目指したきっかけで、どうせなら一流になりたいと当時のホテル御三家の一角の直営を選んだきっかけになったことは間違いない。

4月1日に入社式は執り行われ、京都出身の僕が混乱の神戸に来たのは初代の経営陣の雇用を守るという判断があったからだ。7月1日までの自宅待機にはなったものの、 通常3ヶ月の社員教育が慣例だが1ヶ月で現場配属となり僕のホテルマンライフは本格始動したのだ。震災は大きな時代が変わるきっかけになったことは間違いない。

当時は、パワハラの全盛期だ。配属後1カ月目にはビールの空ケースが飛んで来た。何かミスをした訳でもなく、ただ先輩の機嫌が悪かっただけだ。口答えなどしようものなら蹴りが入る。そんな毎日だ。靴が磨けていないと倒されて靴を取り上げられ投げ捨てられる。客前に出るなと言われるのだ。とはいえ、 今思えば、しっかりと僕らを育てようと言う愛はあった。先輩はその靴を綺麗に磨き上げて、毎日この状態で来いと言う。あの頃は嫌で嫌で仕方なかったが今では先輩たちに感謝しかない。

しかし当時は血気盛んな時代、いつかこの先輩たちに勝てる方法は無いものかと思い付いたのがあのトゥールダルジャンで見たソムリエのサービスだ。つまり当時は目的が先輩を黙らせる事でその手段がソムリエ資格取得と言う図式が成り立った。

しかし、それまで配属された中国料理のレストランではメニューもすべて漢字で全くついてはいけてなかった。異動希望だけは偉そうに上司に伝えた。「今目の前の事が出来ない者にやりたいことなど出来る訳がない。」と言われ目が覚めた。ようやくやるべきことが見えた。

それから月水金は中国料理の本、火木土日はワインの本を読む日が続き、やる気だけは認められ、フレンチレストラン、ソムリエにと異動配属された後、ようやく呼称資格認定試験にも合格した。レストランの先輩たちも何も言われなくなり、ワインの事に関しては頼られる様になった。完全に有頂天だった。が、次の敵はソムリエの先輩だ。

ソムリエの資格がとれたといっても持っていて当たり前の事。沢山のお客様に可愛がっていただき、担当レストランの売上も確実に伸ばし認められた。その事がまた周囲の妬みを買った。この先輩のいじめは陰湿だった。またしても負けず嫌いな性格に火が着いた。この先輩の年齢に達するときには絶対にこの先輩に負けないものを持とうと思った。目的はまたしてもこの先輩を黙らせる。その手段がコンクールだった。輸入元主催の小さなコンクールではあったが、結果は東京での本選出場のクォーターファイナリストだった。やがてその先輩も会社を去った。

今となれば、完全に忘れていた。ソムリエと言う職業は、批判的になる事ではなくそのワインの良いところに気付き、それに付加価値をつけて提供することだということを。

その頃から日本ソムリエ協会の仕事をお手伝いする様になり、地区長、副支部長、支部長、執行役員と約15年経験させて頂いた。なぜ日本ソムリエ協会の運営をすることを自らすすんでやってきたのか。結局のところは目的が自分が誰かに認められること。その手段が協会運営の責任者という役割を全うすることだったことに気付いた。

何を勘違いしてたのだろう。まず何か自分は特別で人よりも優れていると思い込んでいた節がある。それをひけらかす同種の人間を目の当たりにして更に自分に嫌気が差した。卑下するわけではないがソムリエという職業は、ワインを生産しているわけでも、料理を作っているわけでもない。それらをお客様に提供することで生活の糧を得ているのだ。何も偉い訳でもない。

少しばかりの知識があるからと言って目的と手段が違っていることにようやく気付いた。そして協会の職の一切を辞退してひとりの人間に戻った。

原点に立ち戻り考えてみた。生活の糧であることは間違いない。家族、スタッフがきちんと生活出来るだけのことは最低限でもちろん発展的に持続可能でなければならない。目的が金儲けなら手段が飲食業なのは利益率が低く非常に非効率である。

しかし、非効率的であっても自分たちがお客様を笑顔にすることが出来る素晴らしい事業である事に変わりはない。大げさではあるが「外食」と言う文化創造することが出来ることに意義を感じる仲間を得たことが基本にある。

目的がお客様の満足と笑顔で、その手段が飲食店経営であり、方法は料理やワインを提供し、その対価が収入であることが基本なのだ。と考えるとソムリエであることに大した拘りは感じなくなった。 基本的にソムリエはワインのアナリストではなくホスピタリティストでなければならない。

このコロナ禍の今こそレストラトゥール(食堂の主人)としてお客様に寄り添い、地域に根差した人間になることが必要なのだ。

と考えるとこのコロナ禍でアルコール提供が出来なくなっても自分たちの店に1人でもお客様がお越しになる以上、食欲を満たし、お話に耳を傾け、笑顔になっていただき再び送り出すこと。それこそがレストランの本質でワインを取り除かれたソムリエがレストラトゥールとして生きてゆくべきなのだ。

だから僕らにコロナ禍で店を閉めるという選択肢はなく今日も笑顔でお待ちしている。現にワインは無くともお客様は今日もお越しいただいている。そして、またワインを提供できる日は必ずやって来る。何も悲観的にも批判的にもなる必要はない。一日、一日良いところを探し、笑顔でいよう。

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