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妄想日記「恋」

星月なみ 16歳 高校生

「恋」と辞典を引くと、「ある人にあこがれ、慕う気持ち」と書いてあった。私は、国語の授業のことなど忘れて先輩のことを想う。強烈な憧れと、恨めしさ。私はこれを、恋だと認めてはいけない。

「なみ、授業終わったよ。次、移動」

友人のゆうきの声で、ハッとした。私は、黒板の上に掛けられた時計に視線を移し、ため息をついた。

「最近、ぼーとしすぎじゃない?しっかりして」

「うん、次実験だっけ?」

「そうだよ、私たち同じ班なんだから足引っ張らないでね」

私は机からノートと教科書を取り出し、筆箱を脇に挟んで立ちあがった。呆れ顔をしたゆうきを追って廊下に出る。すると、クラスメイト達の「あ」という声が張りのある粒になって聞こえてきた。

「みて、藤井先輩カップル!今日もお似合いだ…」

女子たちが、廊下の窓に張り付いて運動場の方を見ている。私は、なるべくそちらを見ないようにして歩く。見ないようにしようとすればするほど、自分の脳内では鮮やかに藤井先輩たちが並んで歩く姿を想像してしまうと分かってはいても。ジャージ姿の藤井先輩は、きっと腕まくりをしていて、その血管の浮いた腕には彼女からもらった細いチェーンのブレスレットが光っている。その横で、同じくジャージ姿の彼女は今日もポニーテールを揺らしていて、右手には先輩と色違いのハンドタオルと、シトラスのシーブリーズが握られているに違いない。そして、体育の授業が終わると、先輩はシトラスの匂いを纏うのだ。私は、廊下を進みながら自分はどこに向かっているのかを忘れた。どこにも、もう進みたくはなかった。

「なみってさ、好きな人いないの?」

昼休みに、ゆうきが突然聞いてくる。私は、どきっとして「え」と言った。

「なんで?」

「だって、うちら入学してもう半年もたつのに、なみだけそういう話しないから」

「変?」

「変だよ」

ゆうきは、自分の価値観で断言してしまうところがある。でも、今の私にはその言葉が痛かった。言ってしまおうか、とも一瞬思う。そうすれば、この友達は私を軽蔑するかもしれないが、楽にはなれるんだろうか。その時、ポケットの中でスマホが震えた。取り出して確認する。

「書記、よろしくね」

先輩からのラインだった。一見すると、ただの委員会の連絡。しかし、私たちには「放課後、先輩んちに集合」を指す。私は、「はい」と返事を打ってまたポケットにスマホを入れた。もう一度、それが震えることはないと知っているからだ。そうして、私はいつも無駄な期待をしながら放課後を待つことになる。

「へえ、見てたんだ」

「私じゃなくて、他の女子たちが」

「なみも、見たらよかったのに。その方が、自然だよ」

藤井先輩は、ベッドから出て落ちていたズボンを拾った。先輩の動きに合わせて、シトラスの香りが揺れる。私は、頭の上まですっぽり布団を被った。すると、顔のあたりに何かが投げられたのを感じた。布団をおろすと、それは自分の下着だった。薄いピンクの花柄のブラジャーに付いた小さな毛羽立ちが見える。私は、まだ熱の残った身体を起こして言った。

「ゆうきに、好きな人いないのかって聞かれた」

「なんて答えたの?」

「好きな人がいないのは変なの?って。そしたら、変だって」

「はは、ずいぶんな偏見だな。最近の高校生は、色々ですよ」

先輩は、もうすっかり服を着終えて机の上のお茶を飲んだ。口角がキュッと綺麗に上がる横顔の半分が、乱れた前髪で隠れている。私は、その隠れた顔がどうなっているのか見るのが怖くて下を向いた。

「やめる?なみが、つらいなら」

先輩が、近づいてくる気配がして、私はぎゅっと目を閉じた。そのごつごつとした見かけによらず柔らかい掌が私の頬に触れる。そして、とても優しい声で囁く。

「なみが、決めていいんだよ」

「ずるいなあ」と私は思った。同時に、もう一人の自分が「終わらせるチャンスだ」と言う。それでも、私の米粒程度の自尊心がこう叫んでいた。「選ばせるのだ」と。「先輩の恋人に選んでもらえなかった私だけれど、別れは彼に選ばせなくちゃいけない」それが、私の最後の望みだった。私は、ゆっくりと目を開けて先輩の顔を見た。先輩の前髪に触れて、おでこを出すとその二つの目が露わになる。目頭から綺麗に走る二重と、真黒な瞳を見つめる。私は、そこに映る私に向かってほほ笑んだ。

「かわいいね」

先輩はそう言うと、私の身体を引き寄せてそっと抱きしめた。もう、先輩の瞳に映っていないのに私の顔の筋肉は懸命にほほ笑んでいた。

「なみちゃん。ちょっといいかな?」

次の日の昼休み、廊下の方がざわつき顔を向けると藤井先輩の彼女が立っていた。私の内側が一気に鳥肌を立てた。努めてゆっくりと立ち上がり、彼女の方へ向かった。彼女は、いかにも可憐な笑顔を向けて私に手招きをした。そうして、歩き出した彼女の後ろをまるで処刑台に向かう罪人のような気持ちでついて行く。委員会で使っている教室の前で、彼女は立ち止まり振り返った。

「昨日の委員会でなみちゃん、これ落としてたから届けてって」

私は、急いで彼女の握られた右手を見た。その右手が、ぱっと開く。月とラインストーンのついたヘアピンが現れる。私の心はいよいよ限界値まで波打った。それは、先輩からもらった初めてのプレゼントだったからだ。

「あ、すみません」

声が震えないように集中しながら言って、彼女の掌からヘアピンを受け取った。

「もう、自分で届けなって感じだよね。」

「いえ、わざわざすみませんでした」

私は、彼女の顔が見れなかった。その代わり、彼女のベージュのカーディガンのポケットで彼女のスマホが震えているのをじっと見つめていた。

「じゃあ、行くね」

「はい、ありがとうございました」

彼女が、動くとシトラスの香りがした。顔をあげると彼女は再び振り返って言った。

「なみちゃん、かわいいね」

そうして、彼女は振り返らずに廊下を曲がって消えた。私は、ありたっけの空気を吸い込んで、そして吐く。そして、先輩からの最後のメッセージを心で受信した。先輩は、私がこう言う事を望んでいるのだ。

「さようなら」

言葉が零れたのと同時に、堰を切ったかのように涙があふれた。両手で口を塞いでも、隙間から嗚咽が漏れだす。選ばれなかったことが悔しかった。選んでもらえないことが、悲しかった。そして、結局別れすらも選んでくれなかったことが、恨めしかった。

「私に、さようならと言わせるんだね」

それでも、まだ残る恋の残り香を吸おうと私は懸命に息を吸い込んだ。だけれど、もうシトラスの匂いは見つからなかった。授業開始を告げるチャイムの中、私はこれをまだ「恋」と認められない。