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環七沿いの春

世田谷通りと環七とが交わる若林交差点の角にあったドン・キホーテが閉店し、先月その空きテナントに、六本木より、某IT企業の本社オフィスが移転してきた。

いかにも環状線沿いの大型小売店感が漂いまくる外観で、「ザ・業務用」という風情を漂わせていたあのビルを、これまではおそらく洒脱な就業空間を有していたであろう港区の新進気鋭の企業が、現在はどのようにオフィス利用しているのだろう。

何となく気になり、真夜中、人気のないビル入り口の閉ざされたシャッターに近づいてみると、そこには社員の方が近隣住民の方へのメッセージとして記したとおぼしき、一枚の貼紙が。

・現在はリモートワーク中心で、ほとんどの社員がまだ出社していないこと。
・改めてこの新オフィスに出社できる日をとても楽しみにしていること。
・そしてこれからは、この世田谷の地で、四季を感じながら、暮らすように過ごしていきたい、と思っていること。

数百名規模の企業であれば、この4月から就業開始予定の新卒社員も、それなりの人数を採用していたのでは。

そしてギリギリ三軒茶屋文化圏とはいえ、六本木一丁目駅至近の超都心のオフィスから、世田谷の住宅街をゆっくり縦断する、二両編成のローカル線の駅が最寄りになるエリアへのドラスティックな移転は、数百名の既存社員の方々にとっても、本来はとても大きな生活の変化をもたらす春となるはずだったのだろう。

ゴワゴワした新品の木綿が、洗濯を繰り返して徐々に馴染んでいくような、あの新しい季節の始まりならではの日々の手触り。

目下のコロナの脅威によって、そんな慎ましやかな高揚感に包まれる日常を、強制停止させられた、2020年春の私たち。

こそばゆいような照れ臭いような、得体の知れない多幸感や緊張や疲労感やなげやりな気分がないまぜになった、不思議な時間軸に絡めとられる感覚が、今はただただ懐かしい。

強制的に社会制度としてルーティン化された枠組みの中での出来事でしかないが、それでもこの季節になるとほのかに紡がれ続けてきた、ささやかな始まりへの意志とセンチメンタリズム。

4月以降同僚となるはずだったメンバーと、まだzoom越しの分割された画面上での、ぎこちない会話でしかつながれないでいる新社会人たちも、たくさんいるのだろう。

世界中が疑問視する圧倒的なウイルス感染検査数の少なさはそのままに、今日、東京都は緊急事態宣言を全面解除する。

すでに初夏を思わせる青々とした空の下、東京の街のあちらこちらで、数ヶ月遅れの、手探りでぎこちない春が始まる。






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