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○○よりマシだから労働する

これだけ労働を嫌いな私でも、妻が働くよりはマシだと思っているから、働きに出ています。妻が働くことが嫌というと、妻を家庭に閉じ込める悪い夫と思われてしまいそうですが、私は妻に育児や家事をさせているわけではなく、ただ会社労働をしてほしくないという気持ちだけを持っています。(これは過去に何度も書いていることではありますが)

そしてこの理由についてもこれまで書いている通り、妻が労働に出ると、過剰に他人や組織に気を遣い、自分を大事にしなくなってしまうからだということがあります。

「断れない」妻は、これまでも多くのストレスを社会生活、労働者であることを理由に背負ってきました。サービス残業をしてしまう、出たくない飲み会や接待に出てしまう、女性だからという理由で男性に気配りをしなければならない場面に駆り出されるなどです。これを妻が好き好んでやっているのであれば、それをやるなということは言いません。しかし、実際に妻が生まれ育った田舎に拒絶反応を示し、昔のコミュニティを一切断ち切ってここにいることを考えれば、それが妻の精神衛生に良いものだったとはいえないでしょう。

だから私は結婚の条件にこれを提示したわけです。私と結婚するからには、自分を自分で傷つけることは絶対にしないでほしいと。精神的自傷行為のようなことはしてほしくないと。自傷行為というと極論だと言われるかもしれませんが、ストレスの蓄積は三大疾病のリスクを高め、可処分時間の安易な放棄は人生の残り時間を削る、すなわちそれは寿命を削ることに他なりません。それを大事な人にしてほしくないのです。

常日頃から言われている「奥さんは仕事も子育てもないのに何をしているのか」という疑問に対しても、私は「やりたくないことを無理にさせるのが嫌なので、本人が望まないことはやらないようにお願いしています」と説明しています。

実際に、これがもたらす効果はとても大きいものです。毎日共働きで仕事のストレスを家に持ち帰って険悪になるようなことはないですし、毎日が休日のようなワクワクする日々を過ごす妻は、365日ほとんど笑顔です。いつもニコニコしています。無欲と言われそうですが、私はこれが手に入れば、他にほしいものは何もありません。派手な旅行も社会的地位も他人の承認も称賛も全部いりません。妻がニコニコ笑っていること以上に大事なものはあるでしょうか。何年もいたら飽きると言う人がいますが、すでにこの生活も4年を迎えようとしていますが、一向に飽きることがありません。

妻と私、どっちが働くほうが「得」でしょうか。確かに私は社会不適合者、労働に行くと考えるだけで嫌な正確です。幼稚園の学芸会から苦痛でした。人が集団で何かを成し遂げることの全てに意味を感じません。というと、技術革新や社会的に有益なものまで否定することになるので、言い過ぎましたが、一体感を醸成するためのあらゆる儀式や行事が嫌いです。結婚式や入学式、卒業式も嫌いです。みんなが一つの方向を向くのが苦痛です。こんな正確だから、そりゃあ労働を10年もやっていて、一日たりとも楽しいと思ったことはないです。

けれども、労働、会社労働を楽しくないと思うからといって、労働時間をつまらなくすごしているわけではないのです。決まった労務はさっさと終え、残りの時間で勉強したり人と話したり、新しいことを考えたり、文章を考えたりしています。苦痛なことをする時間だから、定時までじっと我慢していようみたいな人生諦めた考えは嫌なのです。どうせ死ぬんだから、楽しむことを諦めてはいけないと思うのです。だから、実質労働時間は一日3時間程度です。

一方、責任感の強い妻は、勤務時間中に他のことをやったり、一体感を醸成している人たちが敷いたルールを破ることができません。決められた時間、きちんと組織や他人のためになること「だけ」をやろうと頑張るのです。だから「あの人はあてになる」「あの人はなんだかんだ引き受けてくれる」と、いつのまにか無理を言われるようになり、ちょっとでも断ろうとすると「なんで、いつもは聞いてくれるのに」と不満を言われるようになります。これで嫌な思いをしたことがあると前に話してくれました。

妻と私、どちらが労働に向いているか。上記を考えると、必ずしも社会適合者が労働への適性があるとは言えないと思います。むしろ、限られたリソースを自分たちの当事者性、人生、幸福追求に使うことのできる割合を、真面目な人は削ってしまいます。私の以前の職場の同期も、上司の顔色を伺って居残りをすることを、友人や家族との約束より優先してしまう人物でした。ああいう人は、会社からは求められる存在ですが、私は妻にはそうなってほしくありません。妻が毎日我慢しながら頑張るのを見るくらいなら、地球上で一番嫌いな会社労働に身を投じる方が、まだマシなのです。

この気持ちは自分の中の礎のようなものでしたが、改めて言語化しようと思わせてくれたのがこの記事です。

様々なことに共感を覚え、感情や思考を再認識する機会を与えてくださる「がまくん専業主夫」さんですが、まさにこの記事に書かれている「大切な相手を苦しめる第三者に腹を立てる」ことが、私が妻との関係で最も忌避し、できるだけこうならないようにしたい展開の一つです。

妻は自分が主役のフォトウエディングのときでさえ、自分がこうしたいという気持ちよりも、押しが強いカメラマンやスタッフの顔色を伺ってしまうような人です。友達と飲んでいるときでさえ、お店の予約や注文がスムーズに進むか、ハラハラしながら一生懸命になってしまうような人です。

たとえば妻が図々しい人や支配欲の強い人に粘着されて、その人の言いなりになって流されようとする時、妻の世界の外にいる私は必要以上にその問題について介入できません。なので、できるだけ、不当に不利な状況に置かれる機会を妻から遠ざけることくらいしか、私にはできないのです。

妻は地方出身、親が望む「地元の優秀な公立高校を出て、地元で公務員になる」という道を歩んできました。学校教師の推奨する進路は絶対であり、周辺の大人がいうことに服従する子供が「正解」とされる社会、労働者になっても、滅私奉公型の人生を送る人間が正しい人間だと解釈される世界で育ってきました。

私と出会って「こんなに社会規範を軽視していても普通に生活を成立させて楽しんでいる人がいるのか」と驚き、「真面目にひたすら周囲の要求に応えてきたのに、これ未満の幸福さえ手に入らなかった自分の道は何だったのか」と言いました。「これまでそれは、自分の努力不足だからなのだと思っていたけれど、人生を変えるのは運や選択だとわかった」とも話していました。

こういう環境で育ち、自己肯定感を失い、就活という現世の生き地獄に揉まれ、労働者(奴隷)になる道を、多くの人は半ば自動的に選んでいくのだと、心底思います。労働で人生を狂わされたり、自ら人生を終えた人物が身近にいる人間として、この違和感や、学校教育から連続する根性論主義には憎しみしか感じませんが、この考えが支配的であることは否定できません。

妻は自分を大切にしない人や社会から、勇気を出して決別し、私と生きる道を選んでくれました。安定的でレールが敷かれた世界から、人間関係や故郷を捨てて私と生活してくれているわけです。それはある意味賭けだと思いますし、不安も大きかったことでしょう。

だからこそ、二度と田舎や過去に経験したような、自分を傷つけても平気な顔をして誤魔化してしまえるような人生には戻ってほしくありません。もちろん、やりたいことは全部やってほしいと思っています。けれども、やりたいこととやるべきことを混同してほしくないですし、やるべきことをやりたいことだと思いこんでほしくないのです。

そして面白いことに、労働以外で妻が参加している色々な習い事やコミュニティには、本当に気持ちに余裕がある人ばかりで、好奇心も思いやりも豊かな人が多いです。義務をこなすだけの人生と、余白をたっぷり使う人生、どちらが人間を人間らしく生かすのか、日々実感するところです。

会社労働は地位の格差を利用した強弱関係を人間関係に持ち込むことを正当化する世界です。断れない人はどこまでも搾取されますし、制度や権利、義務が曖昧なとき、道徳やご都合主義の道徳を持ち出して諭すような人が幅を利かせる世界です。そこで定時まで我慢するのは、妻のような優秀な人間ではなく、私のような不良品で十分です。非常識や屑だと揶揄されたとしても、搾取されずに給料を家に持ち帰ってくればいいのですから。それで、持ち時間でできるだけ、夫婦で何を楽しむかとか、夕飯の献立は何にしようかを考えます。

自分の大切な人が、社会や常識、心無い悪意にさらされるのが嫌だから、私は世界一嫌いな労働に、今週も身を投じます。けれども、嫌な経験の100倍、帰宅したら楽しい話が待っていると思えば、出勤前から、気持ちはすでに帰路にある気分です。

それが嫌だからこそ、その経験を他人にさせたくないから、自分が片付けてしまおうという思考、それが私の労働者人生です。

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