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妻の会社に腹が立つ

久々に憤っている。

何に憤っているのかというと、タイトルの通り「妻の会社」だ。その憤りを突き詰めていくと「労働を認める社会」が諸悪の根源との結論に至った。妻の会社に憤り、考え、より凶悪な正体に迫る過程を文章にする。

注1)本記事の主目的は、私の憤りを鎮めることである
注2)キーワードである「労働」を定義することは(面倒なので)しない
注3)3500字あるので時間のある時にどうぞ


きっかけは、妻の残業

妻の会社に憤りを覚えたきっかけは「残業」だった。その日、妻は睡眠不足だったため定時退社する気満々だった。しかし、予期せぬトラブルに巻き込まれ残業を余儀なくされた。残業なんて日常的にあるし、いちいち憤らないのだが、その日の残業が「最後の一滴」となり私の中で憤りが溢れ出した。

なぜ、会社なんかに、妻の健康寿命を奪われなければならないのか。

おそらく仕事が原因で偏頭痛に罹っていること。おそらく仕事が原因で腰痛に悩まされていること。おそらく仕事が原因でPMSが悪化していること。おそらく仕事が原因で睡眠の質が低下していること。(これは明確に)仕事が原因で睡眠時間を削られていること。

あらゆる不満が噴出した。しかし、妻は自らの意思で働いているわけだし、私が妻の働き方に口を出すのはお節介だ。一般的に「残業する夫に文句を言う妻」が描かれがちだが、私は残業をする妻ではなく、妻に残業を容認(要求)する会社を責めたい。ただ、私は常識人なので妻の会社に抗議の電話をすることもなく、こうして一人で憤っているわけだ。

じゃあ、お前が働けよ(余談)

自己紹介が遅れたが、私は子なし専業主夫だ。健康体だが、妻に養ってもらっている。ここまで読むと「妻の健康を脅かして働かせるクズ夫」というのが素直な感想だと思う。そう思われても構わないのだが「なぜ、妻を休ませて夫が働かないのか」と引っかかった読者のために言い訳をしておく。

*引っかかりを感じない人は、本章を読み飛ばしてもらって構わない。

妻は「私を養うため」に働いているわけではない。一人で暮らそうが、私を養って二人で暮らそうが「働く動機」も「働き方」も変わらないと言う。むしろ、家事のことを考えない分だけ脳の容量が解放されるようだ。「家族を養うために働くぞ!」というステレオタイプな大黒柱ではないのだ。とはいえ、事実上、妻の稼ぎがあるから私はご飯をモリモリ食べられる。

では「私を養うことで、妻の負担はどれほど増えるのか」だが、私を養うコストは激安だ。今の二人暮らしの生活費は、妻の一人暮らし時代の生活費よりも安い。我慢してひもじい生活をしているわけでもない。これは一種のバグなのだが、背景を語ると長くなるので箇条書きをするに留める。

  • 私が労働しないことで、夫婦の可処分時間が増えた

  • その結果、時間をお金で買う必要がなくなった

  • 夫婦全体でのストレスも減少し、ストレス発散費用も減った

  • 原理上、世帯人数が多いほど「一人当たりの生活費」は下がる

  • 結婚により税制面の優遇や福利厚生の充実度が向上した

私が働こうが、働かまいが、妻は今まで通り働き続ける。私を養うことによって妻の経済的・精神的負担は増えるどころか、むしろ減っている。なにより、私が労働に参加すれば「労働を認める社会」に不本意ながら貢献してしまう。願わくば、私はこれからも働きたくない。

妻の健康寿命を金で買う会社

妻は「週5」「1日8時間」「残業あり」「デスクワーク」などの条件を満たす一般的なホワイトワーカー。週に40時間以上も椅子に座って電子デバイスを眺めるうえ、いつ、どこで、誰と、何をするかを自己決定する裁量も少ない。

「そんなの誰だって同じ」

毎日7〜8時間ぐっすり眠り、規則正しい時間にゆっくりと食事を摂り、デスクワークを最小限にとどめ、悪性のストレスからは逃げ、体調や気分に応じて働き方を変える会社員は少数だろう。

「みんな」が健康を犠牲にして働いている。ただ「みんな」がやっていることが正しいとは限らない。「みんな」がイカれているだけかもしれない。

残念ながら、今の日本では「他人の健康を損なって働かせる行為」が容認されている。こんな悪行が成立し得るのは「労働の対価としての給料」があるからだ。妻の会社は妻の健康寿命を金で買っているのだ。しかも、その価格(給料)は会社が決める。私からすると、妻の会社は妻の健康寿命を毎月たかだか数十万円で買い叩く悪徳集団だ

無論、妻は強制労働させられているわけではない。妻は自ら労働契約を結んで健康寿命を売却している。なるほど。ここまで考えて気づいた。「妻」にも責任はあるが、やはり「妻の会社」が悪い。そして、より凶悪なのは「労働を認める社会」「滅私奉公の労働マインドを叩き込む教育」なのだ。

労働をめぐる妻の葛藤

(本章以降の妻の話は、妻によるファクトチェックを受けている)

以前までの妻は「男性優位社会へのアンチテーゼ」として、また「進学校で味わった劣等感を払拭する手段」として労働に意欲を燃やしていた。

しかし、偏頭痛や腰痛を患ったことで「労働により健康を害している事実」に直面し労働への熱は冷めつつある。他方、仕事自体に不満はなく、打ち込める事柄のひとつとしては気に入ってる。なにより、社会とつながれる手段として気に入っている。

労働に冷めつつある妻だが「労働に冷めたこと」を自己受容できずにいる。すなわち「労働に冷めた私=ダメな私」と解釈している側面がある。妻の話を聞く限り、これは学校教育の影響を色濃く受けていると推察できる。

妻は学校教育の被害者

  • 勤勉は良くて、怠惰はダメ

  • 継続は良くて、飽きっぽいのはダメ

  • 集団のために私欲を我慢すべき

  • 「多数派」と「前例」が正しい

  • 苦手を克服すべき

こんな戯言を教え諭し、優秀な社会人(笑)へと仕立て上げる。それが学校だと思っている。私は学校の「教え」を間に受けてこなかったタイプだ。

私とは対照的に、妻は学校の「教え」を疑うことなく、素直に聞き入れてきたタイプ。先生からは常に「良い子」と評価され生徒会長の経験もある。かといって、不真面目な人を否定することもなく「自分に厳しく、他人に優しく」をモットーとした、まさに模範生だった。

妻の誠実性、勤勉性、思いやりなどは学校の「教え」の賜物なのだろう。しかし、良いことばかりではないようで、妻は素直ゆえに「教え」を飲み込みすぎてしまった。「手を抜くこと」「文句を言うこと」「他人のせいにすること」「逃げること」「諦めること」が苦手で、自身の健康すらも犠牲にしてしまう。いわば、妻は「超・社会適合者」ゆえに社会を優先しすぎて、自分を守ることに手が回っていない

結局、最低限の社会適合性と、適度な「テキトーさ」を持ちあわせる人が生きやすい社会なのだ。だとすれば、妻は学校教育の被害者に他ならない。学校が「社会に出るための学びの場」だとすれば、模範生だった妻が苦しむなんてオカシイ。学校の教えを社会で実践した結果、健康を害するなんてことがあっていいのだろうか。

労働なき世界は幻想なのか?

散々、労働を批判してきたが「じゃあ、どうしたいの?」と聞かれると答えに詰まる。私が妻の美意識に干渉し、妻の人生から労働を排除するのは健全とはいえない。なにより労働を忌避したところで、現実問題としてお金がないと生活できない。

ホームレスという選択肢もあるが、すっかり文明に染まってしまったのでハードルが高い。生活保護を貰えば労働せずに済むが、妻の性格からして単純明快に「生活保護でOK」とはならない(生活保護の情報収集はしている)。

結局、労働のある社会に文句を言いつつ、自分達だって誰かに金を払って労働をさせて生きている。今後も、労働によって得た給料で、他者を働かせながら死を待つだけかもしれない。

ただ、少しだけ変化を加えるとすれば「労働の減少、あるいは根絶を目指す人を応援すること」だろうか。例えば、ベーシックインカムを掲げる政党に投票をしたり、労働なき世界を目指す活動家を応援したりすること。

「労働なき世界を目指す活動家」の代表例は、在野哲学者「ホモ・ネーモ」さんだ。彼は「労働なき世界」を本気で目指している。新刊『14歳からのアンチワーク哲学』は、彼が立ち上げた出版社「まとも書房」で販売されているが、noteでも全文公開されている。

考えれば考えるほど、労働して得た金で再び他者を労働させる「労働の輪」から逃れることは難しい。しかし、ベーシックインカムを掲げる政党や、アンチワーク哲学を説く人が出現したことには一縷の望みがある。

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