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なんでここにいる 0007

_降る本と遠辛子(一)


父が香港から戻ってきた日、

太田ハウスのおばあさんの赤ちゃんが生まれた。

と、たしかにそう聞いた。

おばあさんは若い頃、キャンプ好きの男とふたり、車で渓谷へでかけた。

車を降り、ヒールのある靴で、たくましくオフロードを歩きつづけた。

「香港で火傷した。」

父が、言った。

一年に満たないときに二足歩行できるようになった。一年を過ぎたというのに乳歯は生えてこなかった。

「まずいね、それは。」

妹は、いう。

おばあさん、石のようなテーブルを靴下丸めた感じの布で毎日磨いている。

おばあさん、なにかの振動で食器がこそっと動くのを見るのが好き。

おばあさん、ご飯のあとはテレビもラジオも無視して、ただ空っぽの茶碗を見つめている。

おばあさん、そんなときにこそっと動くことがあるって。

「じゃ、生活変わっちゃったんだろうね。」

父は感想をもらした。

初めて降り立った国で、遠い昔に父が土産にくれた通貨を使ってみた。

コインなんてみんな同じさ、といった無神経な扱いを受けてレジに入っていくさまに、まあそんなもんさ、という気がした。

おばあさん、赤ちゃんは、今は、どこで、なにを。

階段を歩く足音と関節の音が、する。


2018年6月3日 セサミスペース M (Twitter


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