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伝統の中にあっても良いものは良いと認めていいのではないか

脳科学で、日本人が世界一不安になりやすい脳の持ち主であるという研究結果が出たことは、最近日本人にも浸透してきている。
このことから、日本人の間でも日本人は元々保守化しやすい国民性であることが、Quoraなどで議論されている。
加えて、以前の記事で書いた、伝統宗教が人々の心の安定に役立ってこなかったことと、倫理観を提示しえなかったこと。
元々不安になりやすい脳を持つ上に、伝統宗教が倫理や人の心の安定を担ってこなかったのだから、酷い話である。
宗教的拠り所の無い、不安定な日本人の唯一の宗教が世間体だった。しかしこれは「人からどう見られるか」であって、本質的な善悪判断ではない。
だから人の目が無くなれば欲望の無制限な解放となってアノミー化しやすい。

右翼の人が見たら怒りそうな話だけど、私が大学で見たインテリ左翼の人も倫理観が欠如してる点は変わりなかった。
人権やマイノリティの権利を謳っているくせに、ホモソーで権威主義で学生の前でふんぞり返っていた。
どっちもどっちだ。
結局頭でっかちに理論だけ取り入れても、世界観を作る宗教が歪んでいるから、リベラル化が困難なのではないかと思わされる。

一方、西欧が進歩主義であれるのは、キリスト教の基盤があったからこそではないか。
現代でもキリスト教は欧米かーの倫理観を支えてるのではないか、ていう疑問をフェミグループにいる欧米人にすると、「いやいやそんな対したことないよ」的な反応が返ってきたことがある。
ただ、それには左翼が元々反宗教なのと、ホワイトウォッシングと呼ばれるのを恐れるあまり「謙遜」しているような気もする。
私はキリスト教に悪い面があることは知っているし、最近やっと発覚してきた司祭達による児童性的虐待事件なんて本当に酷いし、すぐ対策されるべきことだと思う。

ただ、世俗でキリスト教を「やる」司祭達は俗悪な人もいるけれど、キリスト本人の思想が元々進歩的であったことが西洋に及ぼした影響は大きいと思うのだ。
「隣人愛」や「異邦人への愛」「弱者救済」等の明らかにリベラル的な思想を持つ宗教が、保守的な世俗権力に支持されて残ってきた、というのがまず日本では考えられないし、凄いことだと思う。
見知らぬ人であってもエレベーターや電車などで挨拶を交わす、世俗権力である教会や王家がホームレス支援をする、男性であってもリベラルやフェミニストを名乗る人がいる、これらのことがキリスト教無しで説明がつくだろうか。

西欧を美化したい訳ではなく元々西欧にはリベラル化に「向いた」宗教があって、とても恵まれていたのだと言いたいのである。
その上で、恵まれていた者には恵まれない者を助ける義務があるというノブレスオブリージュ(高貴なる者の義務)の思想が必要だと思う。

「みんな同じ」だと思っていたら、出来ない人がいることに「なんで出来ないの?」という上からの視点になってしまう。
むしろ「自分たちはなんで出来たのか?」を考えるべきだと思うのだ。
恵まれていたことを認識して初めて、恵まれない人への慈悲の念と助ける義務感が生まれると思う。
だから伝統=全て悪ではなく、伝統の中でも良い点、恵まれていた点は認めていった方がいいんじゃないか、と私は思う。
この記事↓を読んで、本当に最悪の状況にある人は、「自由」や「奴隷」という発想すら知らない、知らされていない、という悲しい事実を考えさせられた。ジェーン・オースティンの小説を否定することがリベラルではないと思う。

https://courrier.jp/news/archives/250181/

マイケル=サンデル教授が「実力も運のうち」という本を書いた。
まだ読んでないけど、「恵まれていたことを認識すべき」という反ネオリベ的な倫理観は共通してると思う。

https://ebookstore.sony.jp/item/LT000145921001242149/

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