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毎日を楽しむ決意〜さよなら罪悪感〜りさねの場合
これも読み手を意識しない夜の独り言。
ここ最近、夜寝る時に父のことを考えてしまう。いや、寝る時だけじゃない、何をしてても、どこかずっと頭をよぎる。
父
父は、昨年の四月に身体を悪くした。
当時は都内に住んでたので二ヶ月に一度会う程度だった父が、会うたびに痩せ、歩けなくなり、息をつまらせ、身体が痛いと言い、骨と皮しかないような身体になっていった。
私の死生観
私は、長生きが幸せだとは思わないたちだ。また、私自身、大病を患ったら、生への執着があまりないと思う。事実を認め、迫ってくる死に対して、もがかないと思う。
だから、六十代という、年寄りと呼ぶには若い年齢で寝たきりになり、もう余生も長くない父に対して、必要以上の憐憫はかった。
はずだ。
だけど、夜になると考えてしまう。そして涙が出てきてしまう。
弱る父を見る悲しみと、楽しさへの罪悪感
弱っていくしかないって、どんな気持ちなんだろう。
何歳まで生きるつもりだったんだろう。
私が考えたところでどうしようもないのになぁ。
昼間ジムに行って運動をしても、旦那とエッチをしてても、たまに父のつらい顔がよぎり、介護に勤しむ母と姉の姿がよぎり、
ひとりだけこんな風に楽しくしてて、いいんだろうか。なんて気分になる。
合理的でないことは、言語化している私が一番、一番わかっている。
私が楽しまないと父の身体がよくなる。なんて因果関係がない以上、私が日々を楽しまない理由はない。
だけど、人間って、理屈と合理性だけでは、まわってないのだ。
父のためにも、家族のためにも、私は毎日を楽しむし、ジムにも行く。
ただ、今日は、この考えを断ち切るために筆を取った。
父のためにも、私は毎日を楽しむ必要があるのだ。ジムにだっていく必要がある。
というのも、先月ごろ。私は、頭がおかしくなっていた。(このnoteの初期あたりの投稿)
介護を含め、自分のキャパを越えたものごとがたくさんあり、身体がついていけなくなり、気づけば、なぜか父をも恨んでいた。
休職してること、体調が悪いこと、それらを実家のせいに、介護のせいに、していた。脳が勝手に。
認知を歪ませることが、そのときの私のキャパオーバーに対する防御策だったのかもしれない。
姉に指摘され、おかしくなっている、と自分でも気づいた。そして、姉に相談し、二週間弱のあいだ介護を休ませてもらった。
その期間を経て、私は無事、父を恨まなくなったわけだが、治る前に一・二度だけ、父を悲しませることを言ってしまった。
詳細は省くが、「介護のせいで仕事を退職しなきゃいけない。」「介護のせいで姉が犠牲になってる。」「介護をどこまでやるか法律で決まってればいいのに。しんどい。」
てきな話だ。こんなに直接的ではないし、父が本当に聞いていたかも定かではない。
だが、キャパオーバーで、認知が歪んで、なぜか父を恨んでしまっていた私は、そう思っていたのだ。
その事実は、今、私を大きく後悔させている。
それと同時に、あのときあそこで介護を休ませてくれた姉に対して、感謝の気持ちが止まらない。もしも休んでなかったら、もっと酷い言葉を発していたかもしれない。そうしたら、私は一生後悔して生きていったと思う。
だから、あのとき、休んで、自分のための時間をとったのは、正しかった。
自分が好きな、カフェに行く時間とか、読書に没頭する時間とか、そういう「自分が楽しい」だけの時間をとったのは、正しかった。
だから、その学びを生かして、私は毎日を楽しむことにする。決意。
楽しんでる人のほうが、人に優しくできるし、幸せを分けてあげられるし、一緒にいる人が和むもんね。
体力だってあって、疲れないほうが、実家に顔を出す回数も増える。だから、ジムにだって行っていい。いくらでも自分の幸せや理想を追求していい。
今日から、そう思って、泣かない。
たくさん前向きに、楽しく生きて、周りに分け与えられる人間になろう。
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