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今はなき多摩川の渡し

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愛犬が一番元気だった2011年から2013年くらいの頃、夏は陽が沈むまで多摩川で遊んでいた。この写真は、多摩川の船着き場。今はもうない。

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船着き場へは、人がいなくなるのを見計らって入る。愛犬を自転車のカゴに乗せて、土手を走り、河川敷の向こうの方に自転車を止めてここまで歩いて来る。

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船着き場までこんなふうに板が渡してあった。ぷかぷか浮いている。愛犬は、恐る恐る下を見るのが好きだった。

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浮き橋の向こうに見えるネットは、草野球場。ゴルフ場もあり、ゴルフバッグを担いだ人たちが向こうから川へ向かって下りてくる。東京と川崎を船で往来する。この橋は空のドラム缶で浮いていた。こういう風景は、子どもの頃に草むらにつくった「基地」を思い出す。

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この人は、何をしているのかわからない。投網をしていたかもしれない、思い出せない。夏の多摩川では、こういう人をよく見かけた。

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船着き場、夏の夕暮れ。愛犬と座り、川の流れを見つめた。向こうに見える高いビルは、二子玉川の建物。この船着き場がいつ造られたのか知らないが、とてもいい加減な感じが好きだった。今はもうないので、この風景は見られない。

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これは河川敷と河原を結ぶ浮き橋の途中の風景。沼があった。小さな魚やあめんぼうがいて、時々、雷魚のような大きな魚の死骸がぷかっと浮いていた。私は、大きな淡水魚の死骸はとても苦手だ。すべての死骸は残酷なのだが、子どもの頃に見たその光景の瞬間の衝撃が、記憶の彼方から襲ってくる。向こうの方からは、ウシガエルの鳴き声も聞こえたけれど、幾度かの台風で、この沼もすっかり消えてしまった。

多摩川の景色が好きなのは、その景色の中に愛犬がいたからだ。愛犬がいなくなるとその景色に儚さを感じ、底なしの寂しさも味わう。



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