この国の王を殺すには 第六話

「お友達、って……」
 そのとき、日が沈んだことを告げる鐘が鳴った。セオドリックはその音を聞いて、残念そうに眉を下げる。
「もう部屋に戻らないと。僕は夜の間の外出を禁じられています」
「禁じられてるって……。普段はどこにいるんだ?」
「宮廷内の自分の部屋にいます。――また会えますか? 僕は午後の間、この図書室にいることが多いです。家庭教師の出す宿題が膨大なので、ここでやっつけているんです」
「あ、明日もここに、来ればいいってこと?」
「はい、そうしていただけるとうれしいです」
 では、といってセオドリックはまたしてもぺこりと頭を下げた。そのままてくてくとエミルから遠ざかっていき、思い出したようにこちらを振り向いた。
「まだお名前を聞いていませんでした。教えてくれますか」
「え……」
 エミルは躊躇した。ここは道化らしく、おどけてみせるべきなのか。
 しかしこのときのエミルは、虚を突かれてしまい、演技をする心の余裕がなかった。
「エミル、だけど……」
「それではエミルさん。また明日」
 小さな足音が響き、扉が開閉する音がした。エミルはただただ驚くばかりで、その場に立ちつくす。
「あ……」
 なんとか一言、搾り出す。
「あれが……」
 ――あたしの、殺すべき人物。

 その日、エミルは夜会を欠席した。
 こういうとき、道化は便利だと認識する。具合が悪くとも悪くなくとも、夜会に出ることを強制されないし、どこにいてどこでなにをしていても、道化だから、のひとことで済ませてしまえるからだ。
 レナルドと顔を合わせることがなんだか気恥ずかしかったので、この日ははじめてレナルドの離宮ではなく、自分に与えられたという宮廷の自室に向かってみた。
 そこはまるで簡素な四角い箱の中のような部屋だった。四角い部屋には窓はなく、ランタンのあかりのみが頼りで、あとは四角い寝台に、四角い書き物机が置かれているだけだ。室内は狭かったが、出自が出自だけに、個室があるだけエミルにしてみればありがたい。さっそく寝台に横になった。
(なんか、今日はいろんなことがあったな。……もう、寝ちゃおう。明日のことは、また明日になったら考えよう……)
 レナルドの部屋の寝台はスプリングがよくたわんでやわらかかったが、この寝台は木に直接布をかけているだけのようだった。それでもいい。今はとにかく眠りたい。
 思っていたよりも身体は疲れていたのか、やがてエミルはとろとろと、まどろみにとろけていった。

 夢はほとんどみなかった。けれど、やさしいなにかに頭を撫でられている感覚がして、ぼんやりと意識を覚醒させる。
「おや、起こしてしまったかな」
 歌うような声に、またまぶたが重くなる。再び眠りに落ちていこうとすると、ふっ、と、猫の耳に息を吹きかけられた。
「!」
 文字通り、飛び起きた。尻尾を逆立てながら、かたい寝台の上に立ち上がる。
「あはは。そんなにいい反応がかえってくるとは思わなかったよ」
「レ、レナルド……!」
 声の主はほかでもない、レナルドだった。薄暗い部屋の中でも金色の髪はまぶしく、青色の宝石のような瞳はランタンのあかりを反射させ、きらめいている。彼はエミルの寝台に腰掛けていた。エミルはそこから距離をとるように、反対側に数歩、下がる。
「離宮に戻ってこないから、ここにいるだろうとは思っていたけれど……」
 レナルドはエミルに与えられた宮廷内の四角い部屋をみまわして、嘆息する。
「道化に与えられた部屋はこんなものか。ひどいな、窓すらないじゃないか」
「な、なにしにきたんだ」
「ずいぶんなご挨拶だね。戻ってこないから心配して様子をみにきてやったというのに」
「そんなん、別に頼んでない」
「ふふ」
 レナルドの瞳が細められる。
「その様子だと、発情期は無事、おさまったみたいだね」
「!」
「まあ、座りなさい」
 寝台の上に立ったままだったエミルは、レナルドの言葉におっかなびっくり、しゃがみこむ。心臓が早鐘のように鳴り響いていた。発情期。あのときのことを思い出すのが気恥ずかしくて、エミルはレナルドの離宮に戻らず、彼を避けるようにこの四角い部屋で眠っていたというのに。――それなのに、レナルドのほうから自分に会いにくるだなんて。
 あのときはあんなに近かったレナルドの瞳、鼻、唇。それを直視することができずに、エミルはもじもじしながら、
「た、多分……おさまった。その……、する前よりなんか元気だし」
 と、うつむいたままつぶやいた。それはなにより。レナルドは微笑む。
「それで、これはいっておかなくてはと思ったことが、どうしてもひとつだけあってね」
「?」
 上目遣いに、エミルは小首をかしげた。
 レナルドは彼女から視線を外し、どこか遠くをみるようなまなざしでいった。
「俺には種がない」
「――へ」
「俺は子を残せない体質なんだ」
「……は?」
「前にも同じことをいったけれど、きみを猫と同等に語るつもりはないが、猫の雌は発情期に性行為をすると九分九厘、妊娠する。もしかしてきみもそのことを心配しているのではないかと思って、補足しにきたのだが……」
「あ」
 ――そうだった。エミルはレナルドと行為をした後、自分に子ができたらどうしよう、と考えていたのだ。
「種がない、って……」
 どこまで踏み込んでいい話題かわからず、おそるおそる、エミルは問いかける。
「なんでそんなことがわかるんだ?」
「数年前、俺の王位継承権を主張する声の大きな貴族がいてね」
 さほど重たいことを述べる様子はなく、相変わらず歌うような口調でレナルドはいった。
「俺に子を残させるべきだと、定期的にそれなりの家柄の娘を送ってきたことがあったんだ。あの頃は俺も若かったし、まあ、家族がいるというのも悪くないと思ったから、お互いの同意の上、関係をもった。しかしどの娘も、俺と屋敷にこもりきりだというのに、いっこうに孕む気配がない。半年ずつ娘を取り替えるということを何度も繰り返したが……、娘たちの健康状態には異常がないというのに、ただのひとりも妊娠しなかった。さすがに医者にみてもらったよ。みたてでは、俺のほうに種がない、ということだった」
 エミルは思い切り軽蔑のまなざしをレナルドへと向けた。
「あんた……そんなにころころ女を変えていたのか。クソ野郎だな……」
「繰り返すがお互いの同意の上、だ。それに娘が変わるたび、都度きちんと彼女らと家庭を持つことを想定した。妊娠したら結婚するつもりでいたし、決して無責任に子作りに励んだわけではない。――というよりもこの話の核は、俺に種がないことが重要なのだが?」
「あ――」
 そうか、とエミルはひらめいた。
 自身に妊娠の心配がなくなったことにもほっとしたが、それと同じくらいだいじな問題も浮上してくる。
「つまり、あんたがこの国の王様になったのなら……」
「そう」
 レナルドの瞳が細められる。笑みのかたちを刻んでいたが、その瞳は笑っていなかった。
「俺の代で今の王朝は途絶える。シミオンたちさえ、死んでくれればね」
 自分が王になったのなら、この国をめちゃくちゃにする――そういっていたレナルドの言葉の意味が、すこしわかった気がした。王族のだいじな役割のひとつには、子孫を残すことも含まれているのだ。レナルドではそれが果たせない。
 同時に、エミルははっとした。レナルドの口から出たシミオンという名前――自分はシミオン関係でレナルドに報告しなければならないことがあったではないか。
「あの、あたしセオドリックに会ったんだ」
 その言葉に、それまでどこか演技めいてみえていたレナルドの瞳が丸くみひらかれた。
「シミオンの息子にか?」
「うん。本当は王様の様子をみにいこうと思ったんだけど、道を間違えて宮廷図書室についたんだ。そこでセオドリックに会った。なんか……あたしとお友達になりたいとかいってたんだけど……」
「それはいい!」
 両手を打ち鳴らして、レナルドは笑う。
「ぜひ親しくなっておきなさい。そのほうが、いざというとき油断させやすい」
(こいつ、本当性格悪いよな……)
 エミルがうろんなまなざしを向けても、レナルドはおかまいなしだ。それどころかどこか興奮しているようにもみえる。
「すごいな、セオドリックには希少価値があるんだ。なぜだかわからないが内向的な子どもでね……。あまり表に出ることがないようだから滅多に目撃情報もないのだが、きみとはなるほど、お友達か。やはり七呪いの一族を選んだのは正解だった」
「なあ、レナルド……」
 おっかなびっくり、エミルはたずねる。
「本当にシミオンとセオドリックを殺さなくちゃいけないのか? あいつらに王位継承権を放棄させることはできないのか?」
「おや、きみらしくもない。情がわいたのか」
「情ってわけじゃ、ないけど……」
 もごもごと口ごもるエミルに対して、レナルドはぴしゃりといいはなった。
「あいにくだが、個人の意思による王継承権の放棄は認められていない。国王本人ならば好きに継承権の順位を入れ替えることはできるが、どうやら俺の父親にはその気はないらしい。継承権の放棄はできないが、即位すれば退位は自由だ。だが……、シミオンが王になった時点で俺は終わるだろう。というわけできみには、変わらずあの親子の命を狙い続けえていただきたい」
「…………」
「ところでそのセオドリックとの次の約束は?」
「宮廷図書室には毎日、午後来てるっていってた。――あぁっ!」
 エミルは叫んだ。
「やばい! 今、何時だ? セオドリックと午後に宮廷図書室で待ち合わせる予定なんだ」
「えーと」
 レナルドが胸元から懐中時計を取り出して、時間を確認した。
「ちょうど正午だ。午後に待ち合わせているのなら、昼食をとってから向かっても遅くはないのでは?」
「そうかな、どうなのかな。あたし、貴族様と待ち合わせなんてしたことないから、どうればいいかわからないんだ」
「ひとまず、俺の離宮へ戻っておいで」
「え」
 あわあわしていたエミルは、そこでぴたりと動きを止める。
「な、なんで」
「あちらで昼食をとってから待ち合わせに向かいなさい。きみ、着替えていないだろう。服が皺だらけだよ」
「……で、でも」
「――大丈夫、きみが望まないのなら、もうあのようなことはしない」
 あのようなこと、といわれて、すぐにあのときのことを指しているのだと思い至り、エミルは顔を赤くした。
「おや、照れているのかな」
「……っさい……」
「ははは」
 レナルドは笑いながら、エミルのほうへと身を乗り出し、彼女の頭ごと揺さぶるようにその髪を撫でた。
「結構、結構」
「うっさい!」
「ははははは」
 赤くなったエミルをからかうレナルドの笑いは、それまででいちばん自然なものにみえた。
 けれどおそらく、彼とのこんな生活はもう長くは続くまいとエミルは思う。レナルドのほうがエミルを求めないのなら、自分から彼を求めることもないだろう。次に発情期の症状が出たときにはどうなるかはわからないけれど――多分この国の王は、もう間もなく死ぬだろう。一度、王の寝所に入っただけのエミルでもわかる。あの老人からは、腐敗したような甘い、死臭がただよっていた。
(王様が死んだら、すぐに、シミオンを殺して、そして)
 これから待ち合わせている、セオドリックをも殺す。
(そんなことあたしにできるのかな)
 エミルは急に不安を抱いた。
(レナルドからはたしかに、ナイフでも致命傷になる身体の部位は教えてもらったけど……)
 セオドリックと友達になんてなったとしたら。
(友達って、あたしにとってのミミだよな。あたしはきっと――どんなに腹が立ったとしても、ミミのことは殺せない)
 上機嫌なレナルドに連れられて、個室を出た。太陽の光が燦々と宮廷の廊下に差し込んでいる。そのまぶしさに目を細めながら、図書室に向かいたくないなあ、と、ぼんやり思った。

 が、約束を反故にするわけにもいかず、エミルはレナルドの離宮で昼食をとったのち、湯浴みをしてから使用人に手伝われながら着替え、宮廷図書室までの道のりを歩いていた。
 午後になると午前中は眠りこけている貴族たちがのそのそと動き始めてくる。廊下で貴族たちとすれ違うたび、
「こんにちは!」
「こんにちは!」
 と、愛想をふりまいていたエミルだったが、その胸中は複雑だった。
(セオドリックとは、あんまり親しくしないほうがいい気がする……)
 それと同時によみがえるのは、昼食のときに聞かされたレナルドの話だ。
『なあ。さっきあんたは、自分のもとに女を送り込んでくる声の大きな貴族がいるっていってたよな』
『うん、いったね』
『そいつになんか手助けとかは頼めないのか? 声が大きいならなにもシミオンたちを殺さなくても、あんたが王様になれるようになんとかしてくれるんじゃないのか?』
『それは無理だね。彼はもう、殺されてしまったから』
『――殺されて?』
『俺の権利を主張しすぎて殺された。表向きは事故として公表されたが、他でもない王妃エメラインの手によって、その命を奪われたんだ』
(王妃エメライン……)
 以前に覗いた議会の様子が脳裏をよぎる。
 シミオンを――第一王位継承者を横にはべらせながら、彼女は、とても感情的に政治を動かしているようにみえた。感情の起伏が激しい――あのような妻がいたとしたら、たしかに王も中々愛妾を設けることはできないだろう。
(それでも、レナルドの母親だけは愛妾にしたんだったよな)
 レナルドの母――たしか名前はロザリアだったか。
(そういえばロザリアについて、あたしはなにも知らないや。今度レナルドにきいてみようかな。それともきかないほうがいいのかな?)
 などと考えているうちに、気付けば宮廷図書室の扉の前にたどりついていた。以前はここに迷い込んできたというのに、今回は難なくたどりつけてほっとする。
(ここよりも、できればもう一度王様の部屋にいってみたいんだけど……)
 まあ、それはあとでもいい。王の殺害はエミルの役目ではない。王は病気による衰弱死をレナルドが望んでいるからだ。そしてセオドリックと親しくなることもまた、レナルドの望みでもある。
 エミルは図書室の扉を開いた。
「――エミルさん!」
 扉の前で待っていたのか、すぐにセオドリックの笑顔が視界に飛び込んできた。
 彼は立ったまま本を読んでいたようで、それを閉じてエミルのほうへぴょんと駆けてくる。
「よかった。もう来てはくれないのかと思いました」
「あ……遅くなっちゃったなら、ごめん。ごはん、食べてて」
「いいえ、謝られないでください。きちんと正確な時間を決めていなかった僕が悪いのです。でもよかった、また会ってくれたということは、僕とお友達になってくれるということなのですね」
 にこにこと微笑む少年はかわいらしかった。まっすぐな好意を向けられて、なぜか気恥ずかしくなったエミルは、あまのじゃくにもぷいとそっぽを向く。
「そのことなんだけどさ。お友達って、『今からお友達になりましょう』っていってなるものじゃなくないか?」
「そうなのですか?」
 セオドリックはきょとんとしている。
「僕にはお友達が少ないので、よくわからないのです」
「あたしも友達は少ないけどさ……。なんとなく一緒にいるうちに、ああ、こいつとは気が合うなあとか、もっと一緒にいたいなあとか、一緒に楽しいことをしたいなあとか、そうやってだんだん親しくなるのが友達なんじゃないか?」
 実際、エミルとミミはそんな関係だった。彼女の言葉に、セオドリックはふたたび相好を崩す。
「でしたら僕にとってエミルさんはそれです。僕は、――これ!」
 セオドリックは手にしていた分厚い本をエミルに向かって突き出した。
「聖典の内容を、エミルさんと一緒に話し合いたいなあと思っていたところなのです!」
「うえー」
 露骨にいやな顔をしてしまった。レナルドから宿題を出されて半分ほど読み解いた聖典だが、彼が教えてくれた児童小説よりずっと、難解で理解不能な文章がつづられていた。それだけで、苦手意識を持つにはじゅうぶんだった。
「僕も最初は『うえー』でした。苦手だったのです、聖典。だから家庭教師に繰り返し聖典に関しての宿題を出されて……。でも最近、エミルさんとは別のお友達ができてから、そのかたに聖典の内容を噛み砕いて教えてもらって、好きになったのです」
「だったらそいつと聖典について語らってくれよ。あたしはいやだ、もっと別の本について語りたい」
「そのかたとは滅多にお会いできないのです。あまり体調の良いかたではないので……」
 しょげたセオドリックを前に、エミルははっとした。まさか――。
「まさかあんたのいうお友達って、この国の王様のことか?」
「伯父様のことですか?」
 はっとしたあと、またはっとした。そうだった、トバイアス三世はこの国の国王で、セオドリックにとっては伯父にあたるのだ。伯父と友達だなんてあるはずがない。エミルの失言に気付かず、セオドリックはにこにこしながらいった。
「伯父様はたしかに具合が悪くていらっしゃいますが、神様がよいようにしてくださると、僕のお母様はいっていました。伯父様はお友達ではありません。僕のお友達は女のかたです」
「ふうん……」
 神様がよいように、ねえ。内心で皮肉る。エミルが聖典を理解できない最たる理由がこれだ――神様。神様がよいようにしてくれるというのなら、いったい自分の半生はなんだったのか。神様がよいようにしてくれた結果が、あれなのか。
「ひとまず座ってお話しましょう。エミルさん、こっちこっち」
 セオドリックに手を引かれ、昨日、彼と出会った机と椅子が並んでいる空間へと向かう。隣り合わせに座って、ふたりの間にセオドリックが聖典を開いた。
「聖典に書かれていることは、実はとても単純なのです。――聖典には道徳が書かれています」
「道徳?」
「盗むなかれ、殺すなかれ、姦淫するなかれ……。すべて人が人らしくあるための、いわば理性を説いた書物です」
「理性ねぇ」
 けっ、とエミルはわざとらしく毒づいた。
「道徳や理性が、いったいなんの腹の足しになるっていうんだ。――あのな、セオドリック。あんたは大切に守られてきた王子様だからわからないかもしれないが、この世には道徳なんかとは無縁のところで、汚泥をすすってでも生きていかなきゃいけない人間が山といるんだ」
「エミルさんもそうだったのですか?」
 曇りのないまなざしは、レナルドの垢抜けた美貌とは異なる輝きを放っていた。知りたくて、知りたくてたまらないといった様子だ。若干、気圧される。白状するようにエミルは答えた。
「――ああ、そうだよ。あんたは七呪いの一族であるあたしのことを面白がっているようだけど、あたしを面白がる人間なんてごまんといる。面白がられた次にはどうなるか? あんたが想像もできないような、最低の暮らしを送るんだ」
「その最低な暮らし、というものを、たしかに僕は想像することしかできません」
 セオドリックはうつむいてしまった。
「でも、あなたとは多分違う意味で苦しみながら暮らしているかたがいることを知っています。先ほどお伝えした、僕のお友達です」
 セオドリックは力強くうなずいてから、聖典をぱらぱらとめくってみせた。その仕草には意味があるように思えなかった。なるほど、これが語らうということなのか、とエミルはひとりで学習していた。このように話し合いながら関係を深めることも、友情を育むことのひとつになるのだろうか。
「道徳は一般論として正しいものだと説かれます。なぜだと思いますか?」
 問われて焦る。
「そんなん……、わかんないよ」
「それが、人が平和に暮らしていける指針になるからです。道徳を守って、道徳に守られている限り、ひとびとは平和に暮らしていけます」
「じゃあ、あんたは道徳を守って、道徳に守られているってわけだな」
 正論しか述べない少年に、エミルはわずかな苛立ちをおぼえる。
「だったら道徳に守られなかったらどうするんだ。そういうやつらは、道徳に守られたやつらに踏み台にされていいのか」
 セオドリックはなにかを考えるように聖典のページをめくり続けている。
「実際にあなたのいうように、自分さえよければいいという人は宮廷にたくさんいます。僕の伯母様――現王妃がその最たるものかもしれません。もしあなたさえよければ、道徳がなぜ必要か、教えてくれる人物へ話を通すことができます。お会いになりますか?」
「いらない!」
 エミルは強引に、彼の腕から聖典を取り上げた。怒りに任せた行為であったため、あ、というセオドリックの小さな声に、ほのかに罪悪感を抱く。
「あ、あたしはそれより――友達ともっと別の本の話がしたい。本の話ができる友達なんてこれまでいなかったから」
「エミルさんは昨日、児童小説を読まれていましたね」
 乱暴に聖典を取り上げられたことには特に言及せず、セオドリックはやさしい笑顔になる。
「『魔女とお姫様とその弟』……とても有名な児童小説です。僕もはじめて読んだときは興奮しました。本当は、そんなもの男らしくないからと、お母様からは禁じられているのですが……」
「男らしくない? なんで?」
「だってあれは男女の恋愛を描いた小説でしょう?」
「そうだったのか?」
 エミルはびっくりする。文字をおぼえたてで読むのが遅いため、まだそのような展開に至るまで読み進めることができていなかったのだ。
「あっ、すみません。僕ときたら、エミルさんが未読の箇所の秘密をばらしてしまいましたか?」
「いや、それはいいけど……。あんた、恋愛小説が好きなのか?」
「はい!」
 セオドリックは頬を染めながらうなずいた。
「男の子なんだから冒険小説や推理小説を読みなさい、と家庭教師やお母様にはいわれるのですが、僕は恋愛というものの奥深さに惹かれています。物語の中の恋愛は素敵なものばかりです。いつか僕も、素敵な女性と出会えたらいいな……」
「その、女のお友達ってやつは恋愛対象にならないのか?」
「そのかたはすでに決まったお相手がいらっしゃいます。――エミルさんは恋愛をされたことはありますか?」
「え?」
 咄嗟にレナルドの顔が浮かんだ。その事実にエミルはぼっと赤くなり、考えを打ち消すように顔をぶんぶんと横に振る。
「あっ。その反応はあるのですね! どんなかたと恋愛をされたのですか? 恋愛って、どうやってはじまるのですか? そしてどうやって進行していくのですか?」
「知るか、知るか。そんなん知るか!」
「なんて意味深な反応なのでしょう! 後学のために、ぜひ教えてください!」
 きゃいきゃいとふたりの戯れる声が図書室に響き渡る。なるほど、こういう友達も悪くない――と思う反面、これ以上、親しくなってはいざ殺せる場に直面したとして、情がわくことがこわかった。レナルドは国王、シミオン、セオドリックの順で殺すことにこだわっていたが、犯行がエミルのしわざだとばれなければセオドリックを先に殺してもかまわないのだ。
(やばい。やばいぞ、あたし)
 宮廷に来てから――否、レナルドと出会ったときから、エミルの調子は狂いっぱなしだ。
(そもそもあいつは、なんでそこまでしてこの国をめちゃくちゃにしたいんだっけ)
 だいじなことなのでたずねてみよう。そう考えながら、エミルは「おすすめの本を紹介します!」というセオドリックの声に導かれて、図書館の中をてくてくと歩くのだった。

 戻っておいで、といわれたので、セオドリックと別れたのち、エミルはレナルドの離宮へと帰った。
「ああ、もう戻ったのか。ちょうどよかった」
 レナルドは夜会に向けて着替えていたらしく、ちょうどタイを胸元で結んでいるところに出くわした。
 鏡を覗き込み、金糸の髪をさっと撫で付けながら、レナルドがさらりといった。
「我らが王妃様の機嫌がよくない。原因はきみだ」
 ぎょっとする。
「あたし? なんで?」
「きみはだれかに追いかけられているね、エミル」
 どくん、と心臓が一度、大きく脈打つ。
「それもかなり位の高い貴族だ。場合によっては俺と同等ともとれる。どうやらそのやからが、七呪いの一族の娘を探しているらしい。しかも探している娘の特徴は、白い髪に赤い瞳、耳と尻尾は黒――きみのそれと見事に合致する。彼は俺の擁護派の貴族だから、俺に疑いをかけるわけにはいかず、思わず王妃が盗んだのではないか、とつぶやいてしまったのだそうだ。それが王妃の耳に入って、彼女はかんかんだ。きみは今夜、夜会には顔を出さないほうがいいだろう」
 ぞっとした。エミルを探している位の高い貴族――それはおそらく、あの変態親父のことだろう。あの男がそれほど立派な貴族だったとは驚きだ。彼がエミルにした数々の行為は、どれもセオドリックのいう道徳とは程遠かった。
 その男が――あたしを探している。
 つかまったらどうなるか――想像がつかないわけではない。またあの地獄の日々がはじまるのだ。
「あんたは……、いっても大丈夫なのか」
「ああ。ぜひ怒り狂った王妃の醜態を目の当たりにしたくてね」
 エミルはまたしても、今度は違う意味でもぞっとした。この男は、あの変態親父とは違った意味でどうかしている。
「まあ、今宵はお利口に待っていなさい。ひとりでも眠れるね?」
「馬鹿にするな。あんたのことなんか待たずに、ぐうぐう寝てやる」
「それは結構」
 鏡から顔を背けて姿勢を建て直し、レナルドはエミルににっこりと笑みを向けた。
「では、すこしはやいけどおやすみなさい。いってくる」
「あ……」
(聞きそびれちゃった)
 彼がなぜ、この国の滅亡を願うのか、その理由を。
(……待ってようかな)
 それはただの知的探究心ゆえであって、決してひとりで眠るのがいやなわけではない。そう自分にいいきかせながら、エミルはレナルドの寝台に腰掛け、セオドリックからおすすめされて持ち帰った本を開いた。

 思っていたよりもずいぶん本に没頭していたようで、午前零時の鐘の音を聞いてはっと、エミルは顔をあげた。
(あいつ、まだ戻ってこないのか)
 シミオンとセオドリックの暗殺という協定を結んだエミルとレナルドがいるくらいだから、レナルドの命だって狙われていてもおかしくはない。彼はおそらく、危ない轍は踏まないだろうけれど――さすがにすこし心配になってくる。とはいえ、貴族たちの宴が明け方まで続くなんてことはよくあることだった。彼らはダンスに飽きた後、ゲームに興ずるのだ。銘々、空が白んだころに部屋に戻って、午前中は熟睡している。しかしエミルがレナルドに心配な気持ちを抱いた理由は、レナルドがあまりゲームを好いていないように思えたからだ。彼はだいたい、ダンスパーティがお開きになると適当な理由をつけてその場を去る。
 本を閉じて部屋の中をうろうろしていると、すこししてから、レナルドが帰ってきた。
「ただいま、エミル」
 部屋に入ってきたレナルドは、エミルをみるなり相貌を崩して笑った。いきなりぎゅっと抱きしめられてびっくりしたが――すぐにそれより別の事案に驚くこととなる。
「うわっ、酒くさっ! あんた、どんだけ飲んだんだ」
「飲んだんじゃない、飲まされたんだ。ああ、エミルは小さいなあ」
 抱きしめられたまま頭を撫でられて、エミルは彼の腕の中から抜け出すために、いろいろな意味で顔を赤くしながら身をよじる。
「我に返れ、レナルド! 明日の朝には自分の愚かさを恥じることになるぞ!」
「ああ、難しいいいまわしもできるようになったんだなあ。えらいなあ、えらい」
「はーなーせえぇぇっ」
 じたばたもがいたが無駄だった。レナルドの力は強く、そのまま強引に引きずられて、寝台へとなだれこむ。エミルは本格的にあわてた。
「ちょっと! 本当の本当に、はなせ!」
「変なことはしないよ」
「いいからはなせええぇ」
 しばらく問答が続いたが、無駄だった。エミルがもがくことを諦めるほどに、レナルドはしつこく彼女の身体を抱きなおす。向かい合って抱き合ったまま横たわるかたちで、エミルはこわごわと問いかけた。
「……なあ。あんたがさっきいってた、あたしを探している貴族、って……」
「ああ。バーナード辺卿伯のことか?」
「あんたと、同じくらい位が高いって……」
「大丈夫。心配しなくとも、きみを彼に渡したりはしないよ」
 よしよし、と子どもを宥めすかすように背を叩かれる。いいたいことも聞きたいこともいろいろあったが、今、この状態のレナルドになにをいっても無駄だと思った。
 かわりにぽつりと、酔っている今なら逆に本音が引き出せるのではないかという疑問を、口にしてみる。
「なあ。――あんたはどうしてこの国をめちゃくちゃにしたいんだ?」
「きみと同じだ」
 レナルドは酔っていても、歌うように言葉をつむぐ。
「自分だけ理不尽な目にあうのが許せなかった。自分だけ不幸になるのなら、周りの人間も巻き込んでやろうと思った。その対象が俺にとっては、この国の王族たちだったのさ」
「自分だけ不幸な目って、どんな……?」
「俺の不幸は、俺がこの世に生れ落ちたことだ」
 どきっとした。自分さえ生まれてさえこなければ。いいや、せめて七呪いの一族の末裔でさえなければ。そうすればこんなクソみたいな人生を送ることはなかった。いっそ生まれる前からやりなおしたい。否、生まれてきたくなんてなかった。――そうやってエミルも考えていたことがあったからだ。
「俺の母親――ロザリアについては、まだ話したことがなかったね」
 エミルはぴくんと身体をこわばらせた。
「母は俺を産んで、精神を病んだ。――そもそもロザリアは俺の父親なんか愛していなかったんだ。愛していない男に散々身体を好き勝手されて、子を孕まされた。俺を懐妊したと知った瞬間に発狂して、何度も自殺未遂を繰り返した。俺はただ生命として芽生えたというだけで、ひとりの女性を狂わせたんだよ」
 エミルの耳が神経質にひくつく。
「生まれながらに人の人生を台無しにした――そういう男なんだ、俺は」
「じゃあ自由にしてやればいいじゃないか」
「自由に、とは?」
「王様はどうしてロザリアを自由にしてやらないんだ。自分の子どもを妊娠して気が狂う女なんて、そんなん、気分悪いだろ」
「王はロザリアを、心から愛しているから。王妃よりも、息子よりも、誰よりも愛しているから。だから手放したくないのさ」
「だったら悪いのは王様じゃないか。王様が悪さをしなければ、誰も不幸になんてならなかった」
 このときのエミルの言葉は、泥酔しているレナルドの耳には入らなかったようだ。
「きみも大変な人生を歩んできたはずだろうから、わかってくれるのではないかな。生まれただけで王妃に疎まれ、さまざまな陰口を叩かれて、俺がいるだけで母は病み、父からも中途半端な援助だけで遠くへ放り出された。何度暗殺されかけたか、もう数え切れない。俺が離宮に滞在を許されているのは、王室から適度な距離をとらせるためだ。そうでないと王妃の精神状態がおかしくなるからね。宙ぶらりんの状態のまま、誰にも祝福されない人生なんてもううんざりだ。だとしたら俺を疎んだこの宮廷を、俺はめちゃくちゃにしたい」
 エミルの全身がかっと熱くなる。
 母親に愛してもらえないから? 何度も暗殺されかけたから? 庶子であるがゆえに王位継承権が第三位だから? そんなもの――エミルが歩んできた過酷な人生とは比べ物にならない。
 なんて――なんて浅い理由!
 個人的恨みのためだけに、幼児がまわりに当り散らすかのごとく、シミオンとセオドリックの暗殺を企てている。あの純粋な少年を、殺そうと。
「ふ――ふざけんな」
 あまりの怒りに声が震えた。
「あんたの人生のどこが失敗だか知らないが、あんたは恵まれすぎて頭のおかしくなったほかの貴族たちとおんなじだ」
「……エミル?」
 レナルドの腕の力が緩んだそのわずかな隙に、エミルは思い切り彼の身体を突き飛ばし、寝台から転がり落ちる。
 すぐに立ちあがってレナルドに向かって叫んだ。
「親の顔がわかるのに、子どもみたいに拗ねて、そんなのセオドリックのほうがよほど大人じゃないか! 種なしがなんだ、妾腹がなんだ。あたしひとりのご機嫌もとれないくせに――王様になって国をめちゃくちゃにすることなんか、あんたにできるわけないじゃないか!」
「エミ――」
「今日からは宮廷の部屋で過ごす。迎えになんて、絶対に来るな!」
 いって部屋を飛び出した。残されたレナルドの顔は、なぜか瞳に盛り上がっていた涙ににじんで、きちんとみることができなかった。

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門

序章

第一話

第二話

第三話

第四話

第五話

第七話

第八話

第九話

終章


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