この国の王を殺すには 第七話

 なぜ自分がこんな気持ちになるのか理解できなかった。
 レナルドの口から語られた彼の半生は、実際はその言葉以上に波乱万丈だったのかもしれない。けれど、エミルは――サーカスとあの変態親父、彼らに散々蹂躙されて生きてきたエミルは、レナルドの語る「辛い生い立ち」など、ちっとも同情する余地があるように思えなかったのだ。
(あたし、あたし)
 夜の宮廷は賑わっている。道化の姿で廊下を一心不乱に走る猫耳の少女を、なにごとかとすれ違うひとびとが驚いて振り向いた。
(あたし、おかしい)
 ばたん! 与えられた個室に飛び込んで、中から鍵をかける。そこまでしてやっと全身の力が抜けた。へなへなと四角い部屋の床に座り込む。
(なんでこんな気持ちになるんだ。――なんでレナルドの言葉なんかに、いちいち感情をかき乱されなくちゃいけないんだ)
 レナルドだけは、エミルと同じでいてほしかった。
 レナルドだけは、エミルと同じ苦しみを共有していてほしかった。
(そんなの――別の人間なんだから、不可能に決まってるのに……)
 涙がにじんできた。手の甲でそれを拭いながら、しばらくひっく、ひっくとすすり泣き、かたい寝台にもぐりこんだ。涙はしばらく止まらなかった。

 そのまま寝入って、はっと目覚めた。いやな夢をみたような気がするが、思い出せない。頭がずっしりと重く、あまり気持ちのよい目覚めとはいえなかった。
(今、何時だろう。この部屋、時計がないんだよな……)
 午後にはまたセオドリックとの約束がある。腹がすかなかったので、腹具合で時間はたしかめられなかった。
 エミルはそっと部屋を出て、宮廷の廊下を歩き、時計を探す。廊下に差し込む日差しから、おそらく午前中なのだと察することができたが、なんとなく足は、北へ、北へと向かいっていた。なんとなく、――ほとんど直感だったが、今ならたどりつけるような気がしたのだ。
 そして幸運にも、エミルはたどりついた。みはりのひとりもいない、宮廷最北の王の寝所の扉の前に。
 そうっと扉を開けた。開けた扉から差し込んだ光が、室内を照らす。
「――おおう……おおう……!」
 すかさず苦しそうな老人の声が聞こえてきた。
「閉めておくれ。あかりを、……あかりを遠ざけておくれ」
「あっ、ごめん」
 反射的に謝って、エミルは室内にその身を滑り込ませた。扉に背をくっつけたまま、注意深く問う。
「なんでそんなにあかりをこわがるんだ?」
「ああ……七呪いのお嬢さんだね。またここへ来るとは、物好きな……」
「あたしの質問の答えは?」
「ああ、それはね……。わたしの病は日の光をあびると、皮膚がとけてしまうからなんだ」
 皮膚が、とける!
 サーカスにいたときも、皮膚が人間らしからぬ団員はいた。けれど日の光によって皮膚がとけるなど、そんな症例、聞いたこともない。
「それは、その……、痛いのか?」
「そう。とても痛くて、とても苦しい。――どうかそれ以上こちらに近付かないでおくれ、子猫のお嬢さん。わたしは醜い自分の姿をみられたくはないのだよ」
「あんた……。王様なんだろ?」
 エミルは確信を突いた。
「だったらもっと医者に手を尽くさせるとか、この部屋も、もうすこし居心地のいいものにするとか、そういうふうにはしないのか? まさかあの白豚王妃に、王様の権利まで奪われちゃったのか?」
 その言葉に、王は笑った。はじめは笑ったとはわからない、ひっひっひっ、と息が詰まったような音だった。
「白豚王妃とは口が悪い。彼女も昔は、今のイヴリンのように可憐な娘だったのだよ」
「そんなのどうでもいいし、それ、あたしの質問の答えになってない」
「ひっひっひっ。いや、きみが面白いことをいうからね。つい、ね。――ここに誰も置いていないのは、わたし自身ができるだけ人をそばにおきたくないからなのさ。この病はどういう経緯で人に感染するかわからないからね。……どうかあまり王妃を嫌わないでやっておくれ、彼女はわたしの大切な妻なのだから」
「…………」
 なにかいおうと思ったが、いいかけてやめた。この死にゆく老人に、今の王妃の好き勝手な態度を告発したところで、気苦労をかけるだけだろう。
「……彼女はたしかに変わってしまった。以前は控えめでやさしい女性だったんだ。――彼女は故郷に愛する男性がいてね。わたしとの縁談が決まったとき、彼女はその男の子を身籠っていた。けれどわたしと結婚しなくてはならず、涙ながらにその子どもを堕胎したのだ。それなのに、わたしとの間には何年も子を授かることができなくて……。多くのひとびとが王妃の身体について噂をしたよ。それは彼女にとってひどい屈辱だったと思う。女性同士であるあなたなら、彼女の気持ちをわかってあげられるのではないかな。――それにわたし自身も彼女へとても苦労をかけた。そういう経緯から、彼女は強くならざるを得なくなってしまったのだよ……」
「……苦労って?」
「わたしが、別の女性を愛してしまったから」
 どきっとした。そうだ。この男はレナルドの父親で、彼を懐妊して気が狂ったといわれているロザリアの愛人なのだ。
「それって、ロザリアのことか」
「その通りだよ。ロザリア・ランブロウ……。うつくしい大輪の薔薇がほころぶような女性……。彼女のまわりだけいつもほのかに光を纏っているようにみえた。夢幻かと思ったよ。彼女がわたしに逆らうことができないことは知っていた。わたしは権力をもってして、彼女を無理やり自分のものにしたんだ」
 レナルドができたときは、と王は声を弾ませた。
「レナルドがロザリアのお腹に宿ったときは、とても、とてもうれしかった。それなのにロザリアは何度も死のうとした。わたしの前では従順でいながら、静かに、彼女は狂っていったんだ」
 だったら。エミルは身を乗り出した。
「だったらロザリアを自由にさせてやればいいじゃないか。なんで今も宮廷に閉じ込めたままなんだ。そんなの、王妃だってロザリアだって、気分がよくないのは当たり前じゃないか」
「わたしがわがままだからだよ」
 王は語った。
「わたしを愛してくれなくてもいい。――でも近くにいてほしい。せめてわたしが死ぬその瞬間、立ち会ってくれとは願わない。ただ同じ敷地内にいてほしい。それだけでわたしは、死ぬのを恐れずにいられるから……」
「そんなに、好きなら」
 声がふるえた。自分がどういう感情状態なのか、よくわからなかった。
「だったら王位継承権の一位をレナルドにしろよ」
「それはできない。わたしは王妃と離婚するつもりはない。なぜならどうせ彼女と離婚してロザリアと結婚したところで――彼女は余計に病むだけだ」
「もしかしてレナルドを一位にしないのは、ロザリアが病むからだと思っているのか?」
「その通りだよ、お嬢さん。レナルドはわたしの罪の化身だ。あの子を王位につかせるわけにはいかない」
「――ふざけんな!」
 エミルは怒鳴っていた。
「あんた、びっくりするくらい最低だ! あんたひとりの勝手な都合のせいで、どれだけの人が苦しんでると思ってんだ! あんたのせいで宮廷はめちゃくちゃだ! レナルドは王位を欲しがっているんだよ! あんた、あいつにどれだけ父親らしいことをしてやった? なんにもできてないじゃないか! だったら最後に息子が望んでいるものくらい、与えてやってもいいだろう!」
 ひといきに叫んでから、エミルは我に返る。ごほごほと苦しそうに、王が咳き込み始めたからだ。
「……あなたのいう通りだ」
 ひとしきり咳き込んでから、トバイアス三世は悲しげな笑い声をあげた。
「もしかしたらわたしは、この宮廷を憎んでいるのかもしれない。だからあなたのいうように、めちゃくちゃにしているのかも……」
(レナルドと一緒だ)
「あたし、あた、し……」
 エミルは小さな声でいった。
「喧嘩しちゃったんだ。レナルドと」
「――レナルドと?」
 寝台の上で影が動く。が、すぐに引きつったように、枕に身体を沈める。
「そうか。お嬢さんは、レナルドの友人だったのか。それはよかった……。あなたのような友人がいてくれたら、レナルドもきっと心強いだろう」
「でも、昨日の夜、怒って、あたし……一方的に、怒鳴って、出てきちゃって……」
「そうか。あの子が、あなたと喧嘩を……。あの子もそんなに大きくなったのか……」
 トバイアス三世の口から語られる喧嘩、という言葉に含まれていたのは、どこか喜ばしげな響きだった。
「……わたしがいえたことではないが、素直にごめんなさいといいなさい。お嬢さん、あなたはとてもまっすぐだ。それはこの宮廷では滅多にありえない、すばらしい長所といえる。素直に謝って許してもらえなかったら、それはそこまで、とレナルドを見限ってくれてもかまわない」
「そうなのかな。そんなことできるのかな」
「レナルドはわたしとロザリアの子だ。――ロザリアはとてもおとなしく、控えめで、心やさしい女性である。そしてわたしは、まだ二度しか会話をしたことのないあなたに好意を抱いている。――そんなわたしたちの息子であるレナルドが、あなたの謝罪を聞き入れないわけがない」
「…………」
 エミルは泣きそうな気持ちになりながら微笑んだ。
「……そうだといいな」
「さあ。そろそろお行きなさい。これ以上、ここにいて、あなたに病がうつったら大変だ」
「あのさ、あたし――」
 真鍮のノブに手をかけながら、エミルはいった。
「あんたのこと、すっごいわがままで面倒で自分勝手なやつだと思うけど、――レナルドをこの世に生み出してくれたことには感謝してるよ。ロザリアは不幸だったと思うけど……、レナルドが生まれてなかったら、喧嘩だってできなかったわけだし」
 ひっひっひっ、と老人が笑う。
「それはなにより」
 レナルドとよく似た口調に、つい、笑ってしまった。

   **

 王に助言をもらったとはいえ、すぐにレナルドに謝る気分にはなれなかった。午後にはセオドリックと会う約束もあるし――とりあえず冷静になれるまで図書室で本を読んで過ごそう、と思い、それを実行する。
 ところが午後になってもセオドリックはやってこなかった。代わりにふくよかな召使がやってきて、セオドリックは体調を崩し、熱を出しているためここに向かうことはできなくなった旨を告げた。
(セオドリック……大丈夫なのか?)
 おだいじに、と伝えるよういって、ふくよかな使用人を送り出す。
 急に時間を持て余してしまう。読みかけの本に視線を落としてから、エミルは決心した。
(この本を読み終わったら、離宮に戻ってレナルドに謝ろう)
 そうして日暮れまで、図書室で静かに過ごした。

 夕方になって、エミルは緊張しながらレナルドの離宮に戻った。ところが意外なことに、そこにレナルドの姿はなかった。
 使用人にレナルドの行方をたずねてみると、
「レナルド様は、シミオン様にお呼び出しされて、お会いにいっておられます」
 と、いう簡潔な答えがかえってきた。
(シミオンがレナルドを呼び出したのか? なんでまた……)
「エミル様は、今宵の夜会の支度はどうなさいますか?」
「あ、うん。じゃあえっと、お風呂に入ってから着替えて、行くよ」
 たしか昨日はエミルに関して王妃がご立腹だったと聞くが、それがいかほどのものなのか興味があった。出会ってからずっと嫌悪感しか抱けなかった王妃に対して、トバイアス三世の話を聞いてから、わずかに興味がわいてきたのだ。
 支度を済ませる頃には日も沈んでいた。エミルは洗濯された道化のお仕着せに身を包み、離宮をあとにし、社交界が開かれているダンスホールへと急ぐ。奥からはすでに、優雅な音楽が流れているのがきこえてきた。
 会場にはすでに人が集まり始めているところだった。エミルがホールに足を踏み入れると、急にきゃいきゃいとした若い娘たちの声が耳に飛び込んでくる。
「あらあ。猫の道化じゃないの」
 王と王妃の一人娘、イヴリンだった。相変わらず同じような派手なドレスの取り巻きを連れて、扇で優雅に口元を隠している。
「あなたときたら、いつの間にバーナード辺境伯に付け込んだの? あのかたがお母様にどれほどの屈辱を浴びせたか――まったくはた迷惑な猫だこと!」
「申し訳ないのであります、王女様!」
 エミルは道化らしく、おどけた仕草で頭を下げる。イヴリンはいつもエミルをぞんざいに扱うが、この日はなんだかいつもよりも刺々しい。案の定ひとこというだけでは気がすまなかったのか、扇であおぎながら不満げに唇を尖らせる。
「あなたは馬鹿な道化だから知らないでしょうけれど、辺境伯というものがいったいどれだけ地位が高いかわかっていて?」
「エミルは無知な猫なのでわからないのであります、王女様!」
「本当に愚かな猫。辺境伯っていうのはね、大公――うちのお兄様に匹敵するくらいの権力を持っているのよ。どういう経緯かは知らないけれど、お兄様の王位継承権を主張しているわ。おそらくどちらもメヴェリー地方をおさめているからだろうけれど――……まあ、次の国王が誰になろうと、わたくしには関係のない話だわ」
 それより。イヴリンはきっとまなじりをつりあげる。
「とにかくお母様のご機嫌を損ねることだけは、しないでちょうだいよね。でないと本当に、ペースーディースーを頭からかけてやるんだから」
 いって、ふん、と取り巻きたちを連れてエミルからはなれていった。
 バーナード辺境伯、という言葉を聞いたためか、エミルの心臓は知らず知らずのうちに鼓動をはやく刻みはじめる。あの変態親父のもとでされた数々の屈辱的な行為がよみがえってきた。忘れたくても忘れられない地獄のような日々――あの男がまさか、今夜の夜会に顔を出しているのだろうか?
「ええい! つまらぬ、つまらぬ、つまらぬ!」
 ヒステリックな叫び声が聞こえ、それまで流れていた音楽がやんだ。しん……と静まり返ったホールに、エミルはそうっと顔を出す。
「どの余興もつまらぬものばかりではないか! 誰か、わたくしを満足させなさい!」
 みれば広間の中心で、王妃が豪奢なドレスを纏って地団駄を踏んでいるところだった。よほど辺境伯の反抗が気に入らなかったのか、昨日に引き続き本日もご機嫌は斜めな様子だ。
 王妃のかたわらにはシミオンがいた。困ったように肩で息をついている。と、その視線がエミルに向けられた。
「――おお、そこの猫娘」
 シミオンの視線が向けられるのと、王妃の視線が向けられるのはほとんど同時だった。
 王妃はレナルドの連れてきた道化をみつけ、にんまりと意地悪く笑んでみせる。
「カックオンを流しなさい! そこの道化、カックオンにあわせて踊り、わたくしを満足させてみせよ」
「――へ」
「よもやカックオンの踊りを知らないわけではあるまいな?」
 カックオンとは、よく貴族たちの酔いがまわって興奮が最高潮になったときなどに、ふざけて舞われるダンスである。人形のようにぎこちなく踊って、音楽が止まった瞬間にあわせておどけたポーズをとる。それを音楽が続く限り繰り返す。エミルは貴族たちのダンスの習慣を知らなかったが、カックオンだけは踊ることができた。なぜならサーカスで散々、カックオンを踊らされていたからだ。
(この白豚……まさかあたしがサーカスにいたことを知っているのか……?)
 王に代わって国のすべてを掌握する王妃ならば、エミルの出自くらい調べるのはお手の物かもしれない。――というよりもむしろ、自身の宿敵ともいえるレナルドが連れてきた道化のルーツを、さぐらないほうがどうかしているともいえるだろう。
 ためらいがちに、楽隊がカックオンの音楽を流し始めた。
(クソ。この白豚ババア!)
 しかたがないのでカックオンにあわせて適当に踊ってみせる。尻尾をくるんと丸くして、耳をぴょこぴょこさせながら、サーカスで喜ばれたカックオンを適当に舞う。
 音楽がぴたりと止まり、エミルは宙返りをした。それだけで貴族たちからは、おお、と歓声があがる。
(こんなもんで、あたしを侮辱できると思うなよ)
 内心では怒りをめらめらと燃やしながら、にこにこと笑顔を浮かべてエミルはまたしても音楽にあわせて踊ってみせた。音楽が止まる。ふざけたポーズ。音楽が流れる。おどけたダンス。
 それを数回繰り返したところで、王妃が楽隊に向かって手を伸ばした。それを受けて楽隊がぴたりと音楽を止める。
「――つまらぬ。普通の音楽に戻せ」
 役目を終えたエミルは、ほっと息をつく。ぺこりと頭を下げて部屋の隅に寄ろうとしたところ――彼女に近付いてくる人影があった。
 シミオンだ。
 シミオンはワイングラスをふたつ、手に持っていた。
「お疲れ様。妃殿下のご機嫌が悪くて、気分を害したことだろう。ごめんね」
 ワイングラスを差し出され、エミルはあわてて両手を振った。
「とんでもないことでございます、シミオン様! それと、申し訳ございません。エミルはお酒にとても弱いのであります。ですからそのワイン、シミオン様のお口に流し込まれたほうが幸せかと」
「そうか。ではすこし、ダンスの手合わせをお願いできるかな?」
「へ?」
 シミオンは適当なテーブルにワイングラスを置いて、流れるような自然な仕草でエミルの手をとった。
 ちょうど、流れている音楽は普段の服数人が踊るものではなく、男女が一組になって踊るワルツだった。
 シミオンがまさかエミルをパートナーに選ぶとは誰も思っていなかったのか、周囲はざわめき、王妃は驚いたように肉に埋もれた瞳を丸くしている。
 そのざわめきを無視して、シミオンがステップを踏み始めた。
「シ、シミオン様。エミルは、普通のダンスが踊れないのであります」
「大丈夫。わたしにあわせて、同じステップを踏んでみてごらん。きみは運動神経がいいから、すぐにおぼえられる」
 はじめのうちはひどい有様だった。カックオンよりよほど滑稽なエミルの舞を見て、貴族たちからくすくすと嘲笑があがる。
「王位継承権はレナルドへ譲るつもりだ」
「――え」
 くるり。ターンのステップを踏む。
「で、でも……個人の意思による王位継承権の放棄は認められていないって……」
「わたしは王位など欲しくない。今はなんとかして、王妃様と父王を離婚させ、ロザリア殿と結婚してもらえるよう働きかけている最中だ。そうすればレナルドは正式な王の嫡子――唯一の直系の男児となる。王位継承権第一位はレナルドへとうつる」
「あ、あんた……」
 あまりの展開に驚いて、敬語を忘れた。
「なんでそんなこと、わざわざあたしにいうんだ」
「きみは彼に国王になってもらいたいのだろう?」
 それから。踊りを踊りながらシミオンは続ける。
「きみはわたしの息子とお友達になってくれたようだね。あの子は身体が弱くてね……。興奮するとすぐ熱を出してしまうんだ。今日、きみとの待ち合わせ場所にいけなかったのは、昨日、きみと過ごした時間があまりにも楽しかったからだと思う」
「セオドリック、大丈夫なのか」
「大丈夫――とはいえないかな。あの子は本当に身体が弱い。彼をこの宮廷みたいな空気の悪い場所に閉じ込めておくのは、あまりにむごいことなんだ」
 くるり。またターン。そのとき、エミルの瞳には壁際で静かに立っているシミオンの妻、オーガスタの姿がうつった。
「わたしが望んでいるものは、妻と息子との静かな暮らしだ。それは家族の共通認識でもある。可能ならばすぐにでもレナルドと立場を入れ替えたい。しかしここは宮廷だから、煩雑な手続きが山積みになっているけれど……」
 くるり。ターン。曲が終わる。
「まあ、だから安心して過ごすといい、子猫のお嬢さん」
 曲が終了した礼儀としてシミオンは優雅に頭を下げ、その場を後にした。あまりの驚きにその場でほうけたまま突っ立っていると、次に流れ始めた曲にあわせて踊っていた貴族に、どんと尻で押される。
「ちょっと、邪魔よ。そこの道化」
「も、申し訳ないのであります!」
 あわてて壁の花に徹する。本来なら会場を渡り歩いて貴族たちを笑わせるのが道化の役割だが、このときのエミルにはそんな余裕なんてなかった。
(シミオンが自ら王位継承権を放棄するということか? そんなことができるのか?)
 もしそうなったら、エミルは――。
(殺さなくて、済む)
 国王、シミオン、セオドリック。
 ――みんな自分勝手で、どこか狂ってはいるけれど、いい人たちだ。
(このあたしがまさか、貴族相手に『いい人だ』なんて思うだなんて……)
 なんてひよったことを考えているのだろう。かつては世界なんてなくなればいいと思っていた。みんなみんな不幸になればいいと思っていた。それなのにその自分が、まさか貴族を殺したくないと考えるだなんて。
 そのとき、エミルは考え事に気をとられており、自分のすぐ横に男が立っていることに気付かなかった。
「やっとみつけた。子猫ちゃん」
 ひゅっ、と呼吸が止まる。心臓がかつてないほど大きな音を立てて鳴りはじめた。ぶわっと全身に冷や汗が浮かぶ。がらがらに枯れたこの声は、まさか――。
 ぎこちない動きで目だけ動かし、視線を向けるとそこには――痩せぎすで禿頭の、ねっとりとしたいやらしい目つきをした中年男が立っていた。エミルを散々陵辱した、あの変態親父だ。
「まさかレナルド様に取り入っているとは……。いや、わたしの見る目は確かだったというわけだね。きみにはそれほどの価値がある。ああ、子猫ちゃん……。わたしがどれだけきみに会いたかったことか」
 うっとりと見つめられ、怖気だった。逃げたい。なのに、足が地面に吸い付いてしまったかのごとく、動くことができない。
「わたしのもとへ戻ってきなさい。シミオン様が王位を継げば、邪魔なレナルド様はきっと殺される。その前にわたしのもとへ戻っておいで。一刻もはやく」
「い――いやだ」
 ふるえる声で搾り出すようにいった。
「あんたのところなんて、絶対に戻らない」
「――ミミ、という名に心当たりは?」
 心臓が、今度は止まるかと思った。人形のようにこわばった動きで、エミルは顔を変態親父に向ける。
「あのような小汚い娘はわたしの好みではないから、今は放牧しているところだが、身柄はおさえてある。きみがわたしの命令に従わなかった場合、ミミがどうなるか、考えることはできるね?」
「ミミになにをした」
「まだ、なにも。ただわたしの知り合いが営む娼館で働かせているだけだ」
 ――ミミを娼婦に!
 その事実はエミルを強く打ちのめした。割れためがねの、やさしい少女。彼女がエミルのせいで娼婦にされてしまった。自分のせい? 否、それだけではない。――目の前のこの男のせいだ。
「……けんな」
 興奮のあまり、全身の毛が逆立つ。
「ふざけんな!」
 エミルは辺境伯に飛び掛った。これまで彼女の自由を奪い、従順にしつけたと思い込んでいたのだろう、辺境伯は驚いた様子で床に倒れ、エミルの拳をあごに食らった。
 またしても音楽がぴたりと止まる。貴族たちのざわめきと視線は、エミルと辺境伯に集中した。
「ミミを開放しろ! 今すぐに!」
「な、なにをするんだ、子猫ちゃん。こんなことをして許されると――うぐっ」
「ミミを開放しろ! 開放するっていえ!」
「ええい、うるさいわ!」
 叫ぶエミルの声に割って入ったのは、先ほどまで不機嫌を全面に押し出していた王妃だった。
「わたくしの参加する舞踏会をめちゃくちゃにするとは……。この道化、ただでは済まさぬ!」
「そんなん、知るか!」
 エミルは感情的に叫んでいた。
「あんたがどれだけえらいんだ。あんたがいったい誰のためになにをしたっていうんだ。自分だけ贅沢三昧で、えばりくさってばかりじゃないか。あんたなんか、あんたなんか――」
「お待ちください」
 エミルが最後までいい終える前に、彼女のもとへ駆け寄ってきたのは息を切らせたレナルドだった。駆けつけたばかりなのだろうか、その肩は大きく上下している。
 彼はエミルの腕を引いて、辺境伯から物理的に距離をとらせた。彼女の肩を抱くようにして、王妃エメラインと向かい合う。
「わたしの道化がとんだご無礼を」
「そこの道化。まだわたくしになにかいいたい様子だが?」
 王妃は憤怒の形相だった。それはそうだろう。この宮廷は彼女の独断場だ。侮辱されることに慣れていないのかもしれない。それがまたしても、エミルの感情を逆撫でる。
「うっさい、白豚!」
 エミルの言葉に、幾人かの貴族がふきだした。王妃は耳までかっと赤くなり、エミルを打つために手を振り上げた。
 叩かれる。そう思って目を閉じたエミルだったが、いつまで経ってもその衝撃はおとずれなかった。ゆっくりと瞳を開けると、レナルドが王妃の腕を片手で押さえているところだった。
 彼は鋭いまなざしをつくりながら、形のよい唇を開く。
「仮にもわたしは第三王位継承者です。このものは、わたしの道化。打ち据えようとした非礼を詫びなさい」
「なっ――おま、えは……っ」
「詫びる気がないのでしたら、今宵はこれで失礼させていただきます」
 レナルドはエミルの肩を抱いたまま、王妃に向かって背を向けた。
「ま……待ちなさい、レナルド!」
「妃殿下」
 レナルドは相変わらず険しいまなざしのままだ。
「この宮廷では、わたしのほうが位が高いこと、よくよく胸に刻みなおしておいてください」

 宮廷から、離宮までの道のりを黙って歩いている間、レナルドはエミルの手をひいていた。エミルはといえば、頭の中は大混乱だ。ミミが娼婦に――自分は王妃にくちごたえを――レナルドは守ってくれて――それで。
「まったくきみには、いつも驚かされてばかりだ」
 宮廷を出て、庭を突っ切り、離宮まで向かう途中で、レナルドが苦笑交じりにつぶやいた。
「まさかあの王妃を白豚と呼ぶだなんて。おかしいね、みんなが思っていたことなのに、誰もこれまで口にしてこなかった。それを今日きみがいった。あははは」
「レナ、ルド……」
 エミルは荒い呼吸のあいまにいった。
 ――素直にごめんなさいといいなさい。
 トバイアス三世の言葉を思い出し、エミルは立ち止まり、頭を下げた。
「ごめん、なさい……」
「どうした、急に」
 レナルドは驚いたようだった。
「昨日の夜、あんたにひどいことをいった。ごめん……。なんだかあたし、変なんだ。最近、自分でも、気持ちの制御ができなくて……。あんたにはあんたの事情があるのに、悪かった。ごめんなさい……」
「エミル……」
 立ち止まって頭を下げたエミルの顔を覗き込むようにしゃがんで、レナルドはその美貌に苦笑を浮かべた。
「いいんだ。正直、酔っていたこともあってあまりおぼえていない。それよりもきみは――バーナード辺境伯となにか因縁がありそうだね。俺でよければ、力になるよ」
 その言葉に、心のせきがきって落とされた。エミルの赤い瞳から、ぼろぼろと大粒の涙があふれた。
「あたし、あたしっ……」
「なにがあったんだ」
 エミルはしゃくりあげた。
「ミ、ミミが、ミミが」
「ミミ?」
「あたしの、だいじな、友達が……っ」
 泣きながらエミルは語った。詳細ははぶいたが、自分がかつてサーカスで働いていたこと、そこからバーナード辺境伯へ売られたこと、彼から受けた恥辱の数々、浮浪児として暮らしていた折にミミと出会ったこと。――そしてそのミミが、娼婦にされているかもしれないこと。
 レナルドは言葉ひとつ挟まずに、真剣にエミルの話を聞いてくれた。やがて彼女がなぜバーナード辺境伯に飛び掛っていったのかを理解したとき――、力強く、泣いているエミルを抱きしめる。
「大丈夫だよ、エミル」
「でも、ミミがあぶない目にあっているかもしれないんだ。もしそうなったら、あたし、あたし、どうしたら――」
「大丈夫」
 ゆっくりと、確実に、レナルドは噛み締めるように言葉をつむいだ。
「俺がなんとかする」

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序章

第一話

第二話

第三話

第四話

第五話

第六話

第八話

第九話

終章


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