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可哀想という言葉にモヤッとする理由


可哀想という言葉にモヤッとする感情の源

世の中は、自分より弱い立場の人たちを助けるのが当たり前。そういう人たちに優しく、親切にするのが当たり前というのが一般的な考え方だ。

困っている人が私の目の前に現れた時、手助けをすることもあるし、手助け出来ない時だってある。

でも、

私は弱い立場の人間なんだから、
私のことを助けてくれて当然だよね?
私のこと親切にしてくれるよね?

って無言の声が聞こえてくるとモヤッとする。

私は、最初、自分のこのモヤッとする感情の意味が分からなかった。私は、人に優しく、親切に出来ない時、冷たい人間なんだと思った。でも、この、モヤッとくる感情の源は、障害を持った姉との関係にあることがわかった。

可哀想という言葉の裏側に隠れた感情

障害を持った人たち、病気を抱えている人たち、高齢の方たち、いじめられっ子、被害者と呼ばれるような方たち、不登校の子たち、お金や生活に困っている人たち、家族に問題を抱えている人たち、大切な人を失った人たち…。

そのような人たちに対して、可哀想と言う人たちもいる。実際にその問題を抱えた人たちは、大変な状況に置かれているということは間違いない。

でも、可哀想という言葉は、その人たちを自分より下に見ている時に出てくる言葉だ。可哀想の言葉の裏側に、私はそんな可哀想な人たちを助けてあげているという自己満足の感情が隠されていたりする。

私が可哀想という言葉を使わないようにしている理由

私は、そのような人たちに対して、大変な状況に置かれた人たちだけれど、可哀想という言葉は使わないようにしている。

可哀想という言葉を使ってしまうと、その人たちは本当に可哀想な人たちにどんどんなっていってしまうと思うから。大変な状況に置かれている人たちだけれど、決して、無力で可哀想な人たちじゃない。

大変な状況に置かれた人たちに向かって、可哀想という言葉は、自然と出てきてしまう言葉なのかも知れない。

でも、私は、自分がどんな状況に置かれていたとしても、人から可哀想な人間と思われたくない。可哀想ねと言われると、そんなことないもんっ!!って言い返したくなってしまう…。

これも、私の生まれ育った環境によるものだ。私の姉は障害を持っていたから、私たちのことを可哀想という哀れみの目で見てくる人たちがいた。そんな私たちに宗教を勧めてくる人たちもいた。

私はそんな可哀想な人間なの?まわりの家族とはちょっと違う環境の元に生まれ育ってきたけれど、本当に私は、無力で可哀想な人なの?

大変だったけれど、私は決して可哀想な子じゃない!!(そう、思いたい…)

自分にとってどうしようもなく、辛い現状に置かれている時、心の底では、とても可哀想な私と思っている自分がいる。悲劇のヒロインに浸っている自分がいる。誰かに助けて欲しいと強く願っている自分もいる。

でも、私は哀れみの目で見られたくない。だから、その優しさ、親切を素直に受け取れないことがある。私は、弱い無力な人間だと思われたことに対して怒りを覚え、私の力を信じてもらえない悲しさ、寂しさ、虚しさを感じているんだと思う。

矛盾している私。

私は、自分自身を可哀想な弱い、無力な人にしたくないし、されたくない。だから、大変な状況に置かれた人たちを可哀想な弱い無力な人たちという風に、偏った見方をしたくない。

自分自身の持っている力を信じたい。そして、大変な状況に置かれた人たちに対しても、その人たちの持っている力を信じたい。信じられる人でありたい。

そして、出来るだけ、どんな人たちに対しても、どっちが上とか下とかじゃなく、対等な立場の人同士として向き合いたい。

そうやって、自分の心の弱い部分、強い部分とも対等な同じ目線で、向き合っていきたい。

最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。


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