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×(バツ)と〇(マル)以外の言葉で、離婚を語りたい

先日ある集まりで、離婚経験のある女性と既婚者の男性が交わす会話を耳にしたとき、心がピクッと反応した。
「バツイチ」「結婚に失敗した」のフレーズが、お二人の口から何度も発せられたからだ。

悪気なく使われるこれらの言葉に、深い意味のないことは明らかだった。
でも彼女側から発せられる「バツイチ」の言葉に、どことなく肩身の狭さのような響きを感じとったのは、わたしが離婚経験者だからだろうか。
スルーしようとしたものの、心がざわめいてくる。

なんだなんだ、こういうシチュエーションは居心地わるいぞ。

離婚を失敗や忌むべきものという暗黙の了解のもとで進む話の流れを、
(あいや、またれい!)と遮りたくなったのです。

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自分の感じ方が特殊なのかもしれないけれど、この国には結婚生活を途中放棄する(とみなされる)行為に罪悪感を持つように仕向け、同じ相手と添い遂げることをうながす圧力がありませんか。
仕事であれ子どもの習い事であれ、継続を美徳とする文化ゆえに、別れを良く思わない心理が日本人の心には根づいている。

そこへ現れたバツイチという、あっけらかんとした片仮名表記の言葉は画期的で、離婚のイメージを変えた。人生の一大事から不運な出来事へ、離婚がライトな扱いになった風潮を好ましく感じる。

ただ当事者から言わせてもらえば、離婚を正しい/間違っていると表しているようでもあり、採点を連想するような言葉のニュアンスには馴染めない。
婚姻歴を「×(バツ)」と呼ぶのは、なんだか居心地が悪いんです。

「バツイチ」からは、ほんのりとジャッジの香りが漂ってはきませんか。

もしかすると深刻に捉えすぎかもしれない。
だけどライターだもの、語感には敏感にならざるを得ない。

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すべての結婚生活は異文化交流のようなもの。
これがわたしの持論です。

外国人の配偶者に限らず、たとえ同じ国籍の、同世代の相手と結婚しても、
お互いの育った国(家庭)のカルチャーは違う。
領土内で通用するルールや好ましいとされる言動はさまざまで、相手を理解する行為には痛みを伴うときもある。

とにかく飛び込んでみないと、混ざり合う文化から何が生まれるのかは、
知りようがないのだ。

ホームスティ(同棲)ではわからなかった、その国(と相手)の本当の姿に幻滅して別れにつながる場合もあるだろう。
連れ添っているうちに、二人の連合王国が誕生する展開だってあるだろう。

異文化交流を一生続けても途中で切り上げても、「色々あったけれど、この人生でよかったなあ」と本人が満足できたら、それでいいのではないか。

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もっとフラットに離婚を解釈したい。
個人的には自身の離婚について尋ねられたら、「イギリスで2年間留学生活を送ったことがある」といったニュアンスで結婚生活を語っています。

親の離婚に巻き込まれる子どもはどうなるの、と危惧されるかもしれないが、実母の離婚・再婚に遭遇した現在母親のわたしは、離婚しても何とかなる派を支持しています。
より幸せな人生につながるルートは無数にあり、離婚も選択肢のひとつ。
幸せのカタチは家族の形態や人生の時期で変化するから、きっと大丈夫と
根拠のない確信があるのです。

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おっといけない。「バツイチ」の言葉に触発され、結婚・離婚からジェンダーに関する話題へと移る会話の谷間に、つい前のめりで自分の離婚観を語ってしまった。

出すぎた真似だったかも……と気に病みそうになったところへ、「なんだか視界が開けたようで、刺激になりました!」と参加者のおひとりからメッセージをいただきました。

良かった、空気を読まずに突っ走って。

良い・悪いの二択以外で語られる離婚の在り方が世間に浸透したら、当事者も第三者も、みんながラクになれそうだ。
常識や正しさよりも心の声優先の寛容な世界が広がっていけば、独身・
既婚・未婚を問わず、誰もがもっと人生を有意義に過ごせる気がする。

ということで、まずは自分から。
いまもこれからも、離婚経験を恥じず、誇らず、驕らずに生きていこう。

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