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【読書】コロナ時代の哲学:神的暴力と全体主義

 我々は日々、何者かになろうと奮闘している。哲学しない哲学者が哲学者ではないように、仮に何者かを保証する肩書が既に彼にあったとしても、常にそれを維持しようと能動的にならないなら、その人はもはや実質的には何者でもないし、ほとんどの人がそれを理解して、懸命に努めている。

 ところが、我々が何者であるかを、ほぼ一方的に決めてくれる、やさしい?強大な力がある。まず、かつてその力は、人々の前に、道をつくった。きれいに舗装された、いかにも歩きやすそうな道である。一切の個人的努力を要せずとも、人は導かれるままに容易く進むことができるだろう。しかし力の意に反して、悲しいかな、その道の入り口で誰もが見向きもせず素通りするのだった。そこで今度は、道をつくりあげたその途方もない力は、銃口を人々の背に突きつけ、その道を進むよう、顎で指図する。仕方なしに進んだ彼らがその先で見たものは、飛び交う銃弾と砲弾、吹き上がる血潮と肉体の破片、飢えと疫病、腐敗と嘔吐物の悪臭、そして核の凄まじい爆発と雄大に立ち昇るキノコ雲、降りしきる黒い雨だった。

 つまり、その力は、彼らを英霊にした。しかし実際には、彼らは虫けらだった。どっちと取るかは自由であるが、ともかくその力は、いや、もう言っていいだろう、国家権力は、漸進的で不確定な何者かである我々を、歯車の一つと同定して仕入れ、その機関のうちに組み入れ、ぎっちりとそこに固定したまま泥沼の戦地へ送りこむ。そして最後には、英霊か虫けらかにすることだってできるのだ。

 話をより普遍的、抽象的な次元に引き戻せば、要するに国家権力、あるいはそれに比類する権力は、柔軟で多様な存在であるはずの我々の人格を、いつでも固定的、一面的、恣意的な存在として規定することができるのだった。
 こうした規定作用が何をもとにして行われるかといえば、個人情報だった。権力による個人情報の蒐集は、我々が何者であるかを特定するために行われる。そうしてAと特定された大企業の役員は、日頃から高級車ハイヤーやプライベートジェットに乗っていようと、彼はA以外の何者でもなくなる。権力にとって、彼の存在はAであることの他にはなんの意味も持たない。つまり、その地位にまで上り詰めるために費やされた彼のあらゆる努力は、まったく意味がなかった。個人が国家権力によって規定されるということは、そういうことなのだ。

 しかしながら、コロナ以後の世界、IT技術は高度に発達するだろう。権力による緻密な情報蒐集を可能にさせる方向へ。権力の情報収集はもはや間断なく行われ、その対偶的な事象として、我々個人に残される自由な人格の余地は、せいぜい、一輪の花の種を一つ植えるのでやっとくらいのものだろう。そして数世紀後には、そんなささやかな余地さえ残されていないのだろうか・・・

 まるで温暖化に消えゆく洋上の島々のようだ。しかし温暖化を防ぐ手立ては、枠組みとして表明されている。では、今にも海面にのまれようとしている我々の自由は、どのようにして守れるというのだろう。

 ベンヤミンのいう神的暴力は、生活者のための暴力であり、暴力ならぬ暴力であり、法が暴力によって実現するものと同じものを、戒律が個人の内心において、恐怖による強制ではない純粋な葛藤をもたらし、もって非暴力的に実現させる、ある種の力なのであるけど、こうした葛藤を監視する人間の心のうちに実際にもたらすことができるか、監視する人間に戒律を植え付ける暴力、それが焦点なのだと思う。

 ともかくも、全体主義を全面的に否定することがもはや不可能で、ある程度は必要悪として受け入れなければならないとき、どうしたら全面的な受容を防げるかという問題意識は広く共有されるべきと思う。

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