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春子の挑戦:ショートショート

 大学に通いつつ、雑誌の専属モデルを務める社長令嬢の春子は今朝、配車したタクシーに乗って白金台の自宅を出た。向かった先は六本木ヒルズの森タワー、52階にあるカフェだった。
 何か重大な商談か、あるいは友人との会食という訳ではなく、トースターで食パンを1枚焼く程度の感覚で彼女はここへやってきたのだ。

 そうして朝食をとったあと、今日は午後の撮影まで時間があったから、暇つぶしに銀座SIXでちょっとしたショッピングでもしようという予定だった。
 森タワー正面口のタクシー乗り場から銀座へ向かう。実はその車中、彼女は儚い望みを胸に抱いていた……

 この最先端ショッピングモール銀座SIXは、あづま通りという車道に跨って立地していて、要するに1階部分は建物の東西がこの通りによって分断されているのだ。
 そして現代アートの煌びやかなモール内は、酩酊さえ引き起こす妖艶な雰囲気が隈なく立ち込めていて、一歩でも足を踏み入れれば樹海のごとくたちまちに方向感覚を失ってしまい、よほど慣れなければフロアマップを見ていても迷ってしまう。

 春子はここ銀座SIXに家族とともに、コンシェルジェのサポートやポーターサービスを受けながら何度か足を運んではいたが、1人で来るのはこれが初めてだった。

 そう、彼女は、《最初から最後まで、一人で買い物をする》という、庶民にしてみれば取るに足らないような日常に挑もうとしていた……

 撮影現場で春子は、いつもこんな言葉たちを耳にしていた。
たとえばカメラマンからは、『いいね!』『いい!』『きれいだ!』『そう!それ!いいね!きれいだ!』といったようなのが耳をつんざくが、その背後で見守るスタッフたちの、思わず漏れてしまったような、小声で遠慮がちの『かわいい~』や、なにより彼女たちのうっとりした表情は、言葉よりもはっきりと意味を伝えてきた。
 これらほど人を満足させるものはないのに、春子は決して満たされない。
 というのは、彼女には、プラカードが見えてしまうのだった。

 はて?プラカードとは?
プラカードとは、あのプラカードのことだ。つまり運動会や体育祭、甲子園などで行進の際に掲げられるあのプラカードだ。
 それが彼女の場合、前に掲げられて見えるのではなく、言葉と意味の背後、後頭部といってもよい、柄の棒が人々の背に巻き付けられていて、カードの部分がひょっこり後頭部から覗いてみえるのだ。

 そしてそのカード部分には、クラスや校名ではなく、例外なしにこう書かれている。

『君は世間知らずの、一人では何もできないお嬢さん』

・・・・
・・・・・

 『ふん、なによ』
『私だってできるんだから』

 と、PARIGOTのショッパーを手にする彼女は、みゆき通り方面に出ようと4階をうろうろ徘徊している。
 なぜその方面かというと、その通りにあるマツキヨ前にはパーキングメーターがあって、そこにタクシーを待たしているのだ。

 ところが、どこをどういう風に行けば、最短でみゆき通りに出られるのか、春子はわからなかった。
 周回するたびにPARIGOTのスタッフと鉢合わせし、そのたびにニッコリ会釈され、ニッコリ会釈を返す……
やけになった春子は、とりあえず降りることにした。どんなに方向音痴でも、あるいはどんなにこの場所が複雑でも、1階まで降りられないことはなかった。
 そして1階まで降りてはじめて、道を誤ったかどうかが判明するのだった。

 案の定、外に出た春子はあづま通りの、みゆき通りから最も遠い正反対のところに出てしまっていた。もっとも、建物を分断するこの通りはみゆき通りと直に通じているから、突き当りまでずっと真っすぐ歩いて進んでゆけば5分もかからず……

 『んもう!!』と嘆く春子はタクシーに連絡してここまで来て貰おうと思ったが、ヒルズの乗り場から乗車したわけだから、運転手の連絡先もわからなければどこのタクシー会社かもわからなかった。

 『あああぁぁぁどうしようどうしよう!どうしたらいいの!春子!考えるのよ!』

 と、うろたえる彼女を笑ってはいけない。この事態は彼女にとって人生最大の危機といっても過言ではなかったのだから。

 困り果てた末に春子は今朝も世話になったタクシー会社に連絡して、配車を1台お願いした。

 5分も経たずにやってきたタクシーに乗り込む春子。

 優しい笑顔の運転手が言った。
「どうもいつもありがとうございます。それで、どちらに行きましょう?」
 つられて笑顔になる春子は、指をまっすぐに差し、朗らかな声で平然と答えた。
「あそこの突き当りまでお願いします!」
 運転手の顔から笑顔が消えた。

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