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自動生成AIによって作曲家は滅びるか!?

みなさんは、自動生成AIを使っていますか?最近だと、自動で文章を作成するchatGPTが世間を騒がせています。各教育機関では自動生成AIの教育上での使用に関する方針を示していますし、2023年11月にハリウッドで脚本家らが文章生成AIによる脚本生成に抗議するストライキを起こしたニュースは記憶に新しいでしょう。後者のニュースを見るにつけ、ついにAIが“創造”に関する仕事の存在をも脅かし始めたことに、作曲をやっている筆者も恐怖を覚えたものです。
AI社会は、芸術を淘汰していくのか!?そして作曲家は生き残ることができるのか!?
今回は、作曲をやっていて、自動作曲システムの開発チームにも所属している筆者がそれらについて考えてみようと思います。

写真機の登場と絵画の価値の変容

まずは音楽の話をする前に、広く“芸術”と“テクノロジー”について考えたいと思います。先ほど私は「AI社会は芸術を“淘汰” していくのか」と疑問を投げかけましたが、早々に私なりの結論を出したいと思います。芸術は“淘汰”されません。ただし、何か画期的なテクノロジーが生まれると、既存の芸術はその本質を変化させざるを得なくなります。つまり、淘汰されるのではなく次のステップへと変容するのです。“淘汰”ではなく“変容”です。
過去に、とある技術が開発されたことによって、既存の芸術が存続の危機に陥ったことがあります。その技術とは写真です。これまで画家たちは、肖像画や風景画など、写実的に描くことを競ってきました。もちろんただ写実的に図像を残すことだけが絵画の仕事ではありませんでしたが、それでもその部分は絵画の価値の多くを占めていたでしょう。しかし写真の発明で絵画が衰退したのかというと全くそんなことはありませんでした。絵画にしかできない新たな表現に価値がシフトされていったのです。印象派のように、人の目には見えない“光”や“時間の変化”を描く試み、キュビスムのように様々な角度を1枚の絵に落とし込む試み、シュルレアリスムのように写実的に超現実空間を描く試み、ダダイスムのように美術という概念自体を疑う試みなど、写真にはできないような絵画ならではの表現が誇張されるようになっていきました。美術は、淘汰されるのではなく新しいステップへと変容したのです。
同じころ音楽では、レコードの普及はそれまでのコンサートの在り方を変えたでしょうし、音楽の構造も変えたといえます。人々はコンサートに行かなくとも同じ曲を何度も聴けるようになり、コンサートの役割は、演奏の再現性から演奏者の個性的な表現へと、主な価値観がシフトしていったと思われます。今、私は電子的な技術について2例を示しましたが、それだけでなく、例えば楽器の進化、記譜(楽譜の書き方)の進化、印刷技術の進化など、あらゆる技術の進歩によって、芸術は変容していったといえます。技術が人の創造力(想像力)を変えていくのです。

人間らしさとは、コンピューターに劣ること

カメラやレコードにとどまらず、ついに現代では生成AIという、人間の侵しがたい聖域であった“創造”の部分にまで機械技術が食い込んできました。今や人間にできて機械にできないことは無いといっても過言ではないでしょう。人間を簡単に超えてしまっている部分も多々見受けられるほどです。
みなさんは、モノづくりにおいて「人間らしさ」と聞いた時、どのようなものを思い浮かべますか?「手作りで一つ一つ丁寧に作られた」とか「人の温かみがある」とか「味がある」とか、そういったプラスのイメージを持つと思います。しかし、そこには「いびつさ」や「不統一性」、「不完全性」といったマイナス要素をプラスに言い換えたような、妙な言い訳のようなものを感じないでしょうか?例えば出された料理に虫が付いていた時「農薬を使っていない、新鮮な証拠だ」といったように弁護する、それと同じような感覚にならないでしょうか? もはやモノづくりにおいての「人間らしさ」というのは、ある意味では機械による完璧な仕事の下位互換となりつつあるのです。コンピューターにおいてもそうです。隣の物知りおじいさんとインターネットの情報、どちらを信頼するかといえば、恐らく後者でしょう。AIはもはやすべてを知っています。インターネット内に溢れるあらゆる情報を学習し、知らないことなどないほど、完璧な存在です。全知全能です。一方、人は情報をえり好みし、自分の興味あるものだけを選択し、取り入れます。それぞれの興味ある事柄を、そこから広げていったり深めていったりしますが、コンピューターのように遍く全てを、というわけにはいきません。人の知識も特技も、それぞれが育ってきた環境や教育、遊びなどあらゆる生活の中で取捨選択され、そこそこ偏って蓄積されていくのです。そう、その人間ならではの偏りを“個性”と呼ぶのです個性とは、実は人の不完全性を表す言葉でもあるのです
つまるところ、人間らしさとは“個性”であり、それは現時点でコンピューターには持ち合わせないものになってくるのでしょう。AIに偏った情報だけを与えることも当然でき、そのことで疑似個性を与えることもできますが、それは完璧なコンピューターによる不自然な人間の真似に過ぎないでしょう。

自動作曲の現状について考える

さて、そろそろこの記事の命題である「自動生成AIによって作曲家は滅びるか!?」について話を進めていきたいのですが、その前に、現在自動作曲システムというものがどうなっているのか探ってみましょう。
現段階において、自動作曲システムには以下のようなものが見受けられます。
①歌詞を入れると自動でメロディと伴奏を付けてくれるもの(東京大学が開発したOrpheus、京都大学が開発したCREEVOなど)
②特定の作曲家の特定のスタイルの曲を作るもの(バッハのコラールを生成するDeep Bachなど)
③音楽のスタイルを選んでEDMなどを生成する機能を有するDAWソフト
④様々な楽曲を掛け合わせて新たな作品を作る研究
①のうち、私も多少関わっているOrpheusは、この分野ではいち早く、東京大学の嵯峨山茂樹教授の研究チームによって2007年には実用化されています。このシステムは、当時流行した2ちゃんねる、ニコニコ動画で使用され、良くも悪くも注目された歴史があります。歌詞は書けるけど曲を作れない、という人たちに向けた夢のような作曲システムです。歌詞を入力すると、その言葉のイントネーションを考慮しつつ、伴奏や重唱も含め、一手に作曲してくれます。それらは音源だけでなく楽譜にもしてくれるので、出来上がったものをたたき台として、そこから自分で手を加えて作品化することもできます。逆に、そうしないと作品として売り出せるほどのレベルには至っていないとも言えますが…。現在ではソフトバンク・ロボティクス社との提携によりPepper君にも取り入れられ、お客さんがお題を出すと自動で歌を生成して踊ってくれるというパフォーマンスをしてくれます。
https://www.softbankrobotics.com/jp/news/press/20231129a/
テーマを与えると、ChatGPTで歌詞を生成し、Orpheusでメロディを付け、AI歌音声技術Techno-Speech,Inc.で歌声を生成し、Pepper君がダンスをしながら歌ってくれるというもので、まさに現代の技術を総結集したものとなっています。
そのOrpheusを含め①のソフト全般は、現状完全にそのまま作品として売り出すほどのレベルでは無いと感じます。ただ、最初のアイデアの源泉としては十分に役割を果たせるのではないかと考えています。
②のDeep Bachは、バッハのコラール作品を学習させ、バッハの作るようなコラール作品を生み出すシステムです。私が知る時点の話になってしまいますが、確かに見かけ上は上手くバッハ風のものが生成されています。しかし、音楽理論上の規則を無視したものが多い印象でした。こちらは、ディープラーニング(AIによる多層的な学びの構造)によって生成される自動作曲システムの草分け的な存在であり、その意味では非常にセンセーショナルな存在でした。
③の音楽スタイルを選んで自分の作品を作れるDAWソフトは、音楽素材として売り出しても良いようなスタイリッシュなものができる印象です。完全に自動というわけでもないので何とも言えませんが、音楽の知識がない人、作曲をする上での想像力の乏しい人でも、作られたものを聴いて評価するセンスがある程度あれば、そこそこのものが作れるでしょう。
④は、②の発展形ともいえます。この研究では東京都市大学の大谷紀子教授の研究が一例として挙げられます。いくつかのサンプル曲を読み込ませ、コード進行やリズムパターンなど曲の特徴を解析し、それらを融合して新しい曲を作曲してくれるというものです。

これらの技術を見たとき、これまで作曲家やミュージッククリエイターなどアーティストが手掛けてきたであろう作業が、いつか自動生成システムに置き換わる可能性は十分にあり得るな、と思ったものです。

自動生成AIによって作曲家は滅びるか!?

前章で自動作曲システムの現状を確認いたしましたが、ここで改めてこの記事の命題について考えてみましょう。この記事の最初の章で「芸術は“淘汰”されるのではなく“変容”する」と述べました。当然それは芸術の一分野である音楽でも同じことが言えます。しかし、“芸術”ではなく“芸術家”にスポットを当てるならば、その種類によっては淘汰されていく人たちが当然出てくるでしょう。カメラの登場によって肖像画家というのは大きく減りましたし、モータリゼーションで、飛脚という職業は無くなりました。後者の例で言えば、“運送”が淘汰されたわけではなく、運送の形が飛脚から車を使った宅配に変化しただけです。同じように、作曲家は、その種類によっては滅びる人たちもいるかもしれませんが、音楽創作全体でみると、音楽創作の在り方が変容する、ということになるでしょう。特に商業用BGMやYouTubeの音楽素材などは、AIによって置き換えられる可能性は十分にあり得ます。すでに一部では音楽素材の中で、AI技術を使って生成したであろう物が見受けられます。ただし、現時点で芸術としての音楽がAIによって置き換えられるかというと、そうはならないと思っています。上述したように、現在の自動作曲システムでは全自動で“芸術作品”と呼べるほどのものを作るには至っていません。さらに技術が向上して、全自動で充実した作品を作れるようになったとしても、まずAIはこれまで学習したものを模倣して創作するでしょう。このフェイズだと“独自性(オリジナリティ)”や“個性”というものはありません。“独自性”の欠けた作曲家は仕事を奪われる可能性はありますが、“独自性”を持った真の芸術家には何のダメージにもならないでしょう。
しかし、今後さらに、AIが過去に学んだデータから新しい境地の音楽作品を生み出せるようになったなら、その時作曲家の存在意義も危ぶまれることになりそうです。しかし、そこで発揮されるのは人間の持つ“不完全性”および“個性”というものでしょうその作曲家が歩んだ人生、そこから得られた趣味嗜好・哲学・美学といった“偏り”こそが、芸術と呼べるものなのです。写真の登場が絵画の価値を変容させたように、作曲家たちはAIには絶対に真似できないような人間ならではの芸当を探していくことになるでしょう。芸術音楽の新たなステップへの“変容”が訪れるはずです。

AI作曲家は成立するか

カメラの誕生は絵画の世界を変えましたが、一方でカメラを使ったアーティスト、写真家を生み出しました。カメラを使って日常を切り抜き、それを芸術作品とするのです。それらは「日常のどこを・どの瞬間を切り抜くか」というところと「どんな技法で撮るか」といったところなどに、その写真家の“個性”=“芸術性”を見出すのだと思います。写真家という芸術家が初めて現れたころ、そこに芸術性を認め受け入れる人も多かったでしょうが、そうでなかった人も当然大勢いたでしょう。現代では立派なアーティストの一つであることは言うまでもありません。このように、写真家は芸術界で確固たる地位を築きましたが、AIで画像が自動生成できるようになった現在、それらを使った“芸術家”は成立するでしょうか?1年くらい前、X(当時Twitter)で、ある言葉が炎上していました。「AI絵師」という言葉です。生成AIに指示を与えて自動生成した作品を、AIに描かせたということを公表しつつ自身の作品としてSNSに流し、それらの人たちはAI絵師と呼ばれていたわけです。なぜこの言葉が炎上したかというと、大きく3つの観点があると思います。
①通常の“絵師”としての技能が全く必要でないところ
彼らAI絵師が行う行為としては、AIに指示をすることだけで、従来の絵師が必要とする絵を描く技術やセンスは特に用いません。そんな彼らが「絵師」と名乗る、もしくは呼ばれることがおこがましいというものです。
②独自性(オリジナリティ)が無い
生成されたものが既存の何かの作品の模倣になってしまうというところです。さらに、既存の特定の作品への類似度が高ければ、著作権問題が浮上します。
③誰の著作物になるのかわからない
そもそもAIで生成した作品は、基本的には著作物とはみなされないことが多いです。AIで生成されたものは誰の作品となるのでしょう?AIの開発者?それとも指示を出したユーザーでしょうか?ただし、アーティストがAI開発の段階から中心的に関わっているのであれば、その人の作品として認められそうです。

これらの批判ポイントは、そのまま自動作曲にも当てはまるでしょう。①に関してはもちろん、作曲の知識どころか、楽譜すら読めなくても問題ありません。②に関しては、今後のAIの発展にもよるでしょう。③に関しては、作曲家(特に芸術音楽の作曲家)にとっては大問題です。作曲家は、研究者のように共同で一つのものを作り出す・発見するといったことを基本的にはしません。自分の仕事に、他の誰かを介入させたくないという人が多いです(私自身もそうですが)。そこで、誰かの作ったAIを用いて作曲をしたとして、それを自分の作品として発表するのには抵抗があると思います。ただこれは、ツールに全く頼らない、ということでは決してありません。作品作りの行程の中で、根幹となる創造的な仕事はあくまで自分が握っていたい、ということです。ここに、自動生成作曲システムが登場した後、作曲家の仕事がどのように変容していくかのカギがあると思います。
これまでも、作曲の行程の一部をデジタル・ツールに頼るということは、歴史上よくありました。アルゴリズム作曲や、スペクトル分析による音の解析などは、音を生成するという、一見作曲の根幹とも思えるものをツールに頼ります。ただそれらは、作曲家がコンセプトを練り、アルゴリズムを組んだり分析したりして作品を構成するわけで、創造的な根幹の仕事はあくまで作曲家が主体となっています。一方で楽曲自体が自動生成ともなると、作品を作る創造的な主体がどこにあるのかわかりません。作品作りの様々な行程の中で、創造的な根幹がどこに置かれているか、それが誰の著作物になるのかを見極めるカギになります。例えば、メロディはどうでも良くて、それをリアルタイムでエフェクト加える作品があった場合、エフェクトを加える、という部分に創造的な価値があると言えます。リアルタイムでメロディを生成する装置を作ったとしたなら、そのアルゴリズムを組む部分に創造的な価値があると言えます。指示を与えるだけで音楽が生成されるAIを使った場合、その“指示を与える”という行為に、どこまで創造的な価値があるでしょうか。AIを使って作曲したものを作曲家が自作とするには、もっと上位の次元で哲学的なコンセプトを持たせる必要があると思います。写真家にとって「日常のどこを・どの瞬間を切り抜くか」というような独自性の根幹に当たる部分を、自動作曲システムの使用者も考える必要があるでしょう。

まとめと洗足学園の取り組み

自動生成AIによって作曲家は滅びるか!?という命題に基づいていろいろと書きましたが、結論としては、
①現状AIは、人間の芸術作曲家を脅かす存在ではない
②今後自動作曲がさらに進化した場合、人間の作曲家に求められるのは「不完全性=個性」である
③AI作曲を使って作曲家が自作として作品を作るならば、自動で音楽を作成するというところを超えた上位の次元でのコンセプトが必要である

の3点に集約すると思います。
ただこれはあくまで筆者の狭い了見の中で絞り出したような一意見に過ぎず、他にも多くの考え方、多くの方法があるでしょう。こういった話は、議論が尽きるものではありません。こうした音楽創造とAIの関係について議論を戦わせる学会を、本学・洗足学園音楽大学は主催しています。日本AI音楽学会です。
日本AI音楽学会は、2017年、洗足学園音楽大学の教授である作曲家・松尾祐孝氏によって創設されました。定期的にシンポジウムを開催し、それらはAI研究者と作曲家・音楽家の接点として、AI音楽の新たな可能性を広げています。今回私が書いた内容にも、シンポジウムで議論された内容が含まれています。気になった方は、ぜひホームページをのぞいてみて下さい。
https://www.jaims.senzoku.ac.jp/

最後になりましたが、実はこの記事のヘッダー画像とその次の画像(カメラを持った男性)は、画像生成AI(Adobe Firefly)で作ってもらったものです。すごい技術ですね。確かに脅威を感じるものです。


Text by 一色 萌生(洗足学園音楽大学 講師)

▶▶洗足学園音楽大学:https://www.senzoku.ac.jp/music/

▶▶洗足学園音楽大学(X(旧Twitter)):https://twitter.com/senzokuondai