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醜い承認欲求


アメリカの心理学者アブハム・マズローによれば、人間の欲求は5段階のピラミッドのように構成されていて、低階層の欲求が満たされると、より高次の階層の欲求を欲するとされている。

そして今日は下から4段目の承認欲求について話したいと思う。

承認欲求とは

前提として4段目の承認欲求について考えられるのはとても幸せなことなんだと思う。私たち日本人はほとんどの人が当たり前のように衣食住を安定させ、家に住み、学校に通うことができている。その上で私たちは承認欲求を求める人種になった。

承認欲求とは「自分を見てほしい」「話を聞いてほしい」「誰かに褒めてほしい」といった「他者から認められたい」という欲求だ。 誰もが持っている自然な欲求ではあるものの、時には自分自身を苦しめたり、周囲の人を不快な気持ちにさせてしまったりと、強すぎる承認欲求には良い影響があるとはいいがたいものもあるだろう。

誰かに認められたいの。

では果たして、どうすれば私たちは承認欲求を満たし、自己実現欲求の段階に移ることが出来るのだろうか?

InstagramやTwitter、TiktokなどのSNSは誰かに認められたいという欲求が顕になっている場だと言えるだろう。他人の人生を眺めては自分と比較し、「自分もこの人みたいになろう」「自分もこの人みたいにもっと頑張ろう」と。でもそれは「自分」を生きているのだろうか。その行動は自分の意志なのだろうか。自分で今までやってこなかったことを他人がやっているから自分も早くやらなきゃなんて考えは煽りにのってしまったようなものなのではないだろうか。

同じように近年、大学や高校の学習方法や受験の変革により、社会貢献をする学生が増え、「みんながやっているからボランティアしなきゃ!」「やらないと受験で不利になる。」と思う人もいるだろう。

社会主義国と民主主義国の罠

社会主義国に住む人たちにとって社会に貢献することは当たり前だ。しかし自己肯定感や自己実現をする場が完全になくなってしまったら社会主義国は一体どうなるだろうか。国民は労働モチベーションや個人間の信頼や連帯感が低下し、相互に支え合う社会的ネットワークや共同体の形成が妨げられ、社会的結束が弱まるだろう。だからある程度昇進や責任を負わせることで人を評価し、自己肯定感を保つことで社会的結束が弱まらないようにしている。つまり社会主義国は社会貢献メイン+自己実現サブで成り立っているのだ。

一方、民主主義国に住む私たちにとって一人一人の国民が政府の形成や政策決定に参加し、基本的な権利と自由を享受することが当たり前だ。しかし自由だからといって社会貢献を完全に国民が放棄したら一体どうなるだろうか。福祉施設や地域サービスがなくなり、社会的に弱い立場にある人々へのサポートや機会均等の確保が疎かになり、市民の連帯感や共同体の形成が弱まるだろう。つまり民主主義国は自己実現メイン+社会貢献サブで成り立っているのだ。

社会主義国も民主主義国もどちらかひとつで成り立っている訳では無い。そこにはサブがあるのだ。私たちが住む日本で「社会貢献」というサブを忘れてしまうと国は崩壊する。だから政府はSDGsやESG投資などを教育機関や会社に積極的に進め、それを称賛する。
もちろんそれは良い事だ。しかし私たちは民主主義国に住んでいる。だから社会貢献はあくまでサブであることを忘れてはならない。

これは民主主義のトラップなのだ。
社会貢献をすれば必ずしも自分が誰かに認められると思わない方が良い。

「社会貢献をするとみんなに認められる!」
そう思ってる人は「それは自分がを認められたのではなく、その行動が認められただけ」だという事に気が付かなければならない。

ではどうしたら「行動」ではなく「自分」が認められるようになるのか?
なんでも測定したがる人間だが、皮肉なことに、人間一人一人を評価するシステムは存在しない。というか測定できないし、測定するべきではないのだ。だから自分のことは自分が認めてあげるしかない。

でも自分の事は認められないの。

社会貢献をして自分のスキルや居場所を見つけて幸せを感じる人もいる。
でも幸せを見つけられない人との圧倒的な差はなにか?

幸せになる人は自分のやりたいことをひたすらにやり、自分自身をまずは自分で認めることができる人だと思う。そういう人に人は魅力を感じで自分は認められ、自分も他人を認められる余裕が生まれるのだと思う。

一方、人と比べて自分を奮い立たせようとする人は、自分にストイックで、一切自分を甘やかすことなく、存在しない完璧を求めてどこまでも自分を認めない。自分を認めることが出来ない人は人にも認められないし、分け与えることも出来ないと思う。

現に今まで私がそうだった。SNSを眺めては人と比較して、絶対に成績はAじゃないと、偏差値の高い学校に行かないと、スポーツも勉強も仕事も全部完璧じゃないとダメなんだと思ってた。

だから他人の事も認められないの。

成績Bで喜び、偏差値の低い学校で満足し、スポーツができなかったり勉強ができなかったり、仕事が出来ない人はダメな人なんだと他人も認めなかった。

時代の変化に伴い口では他人を認めていたものの、心のどこかで何かが引っかかっていたような気がして、自分にはその道を選ぶ勇気がなかった。

でも偏差値やブランドで学校を決めるのではなくて、他人と比較して流行りについて行くんじゃなくて、やりたいことをやって、明日死ぬって覚悟で毎日生き始めたら自分にしかできないことを思いついたり、そういうこともあるよねって他人を認められるようになり始めたような気がする。ようやく地に足がついた。まだ自分が誰かに認められたのかどうかは分からない。だけど自分が自分を認めてあげられてればそれで悔いはないやって思った。

誰かに認められたいの。
でも自分の事は認められないの。
だから他人のことも認められないの。

そんな私から、

自分を認めてあげられたの。
だから他人のことも認められた。
そしたら誰かにも認められるようになったの。

そんな自己実現メイン+社会貢献サブの、日本人に生まれてよかったと思えるような人生を目指せるようになった気がする。

そしてセントリベル全体でも自己実現メイン、社会貢献サブで今後もやっていきたいと思う。

Created by SERUCHOCO


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