見出し画像

戦時下の「節米」の掛け声は、農村の習慣や葬儀までにも多大な影響を与えー限界勝負は銃後でも

 表題写真は1940(昭和15)年の駅弁の懸け紙ですが「節米に協力しませう」との注意書きがでかでかと貼ってあります。1940年といえば、紀元2600年のお祝いや行事を各地で盛大に行っていたのですが、同時に1937(昭和12)年からの日中戦争下で100万人ともいわれる兵士を中国大陸に送り込んでいました。それに伴う物資不足で、五輪や万博も中止や延期をしています。
 兵士の供給源は農村。労働集約型の日本農業には長期間の戦争に若者が取られるのはつらいものであり、かつ、満州移民政策が進められ、化学肥料工場は軍需物資生産に忙しいといったありさまでした。国内ストックも減少の一途をたどる中、国力の限界だから戦争を終わらせようという発想ではなく、国内の人間が我慢をしようという方向に進んでいたのです。米節約の掛け声は1940年から急増し、陶器製鏡餅が登場したのもこのころでした。
           ◇
 そんな状態で太平洋戦争に突入して敵と戦線を増やし、さらに兵隊が農村から引き抜かれていった1943(昭和18)年9月、秋の刈り入れ時期の長野県水内村(現・栄村)では、大日本婦人会水内村支部が「秋餅半減運動」に取り組んでいました。下の写真が半減運動の各班への通知です。

農村部の戦時下生活を示す貴重な通知

 「秋餅」とは、秋の収穫が終わった後に、嫁が実家へ戻る風習で、その際、実家では餅やごちそうを用意して迎えたということです。「戦時食生活実践に関し『秋餅』半減運動に関する件」と題したこの通知では、「混食の励行其他色々な工夫によりまして戦時下食生活の改善が実行されておりますが、まだまだ研究の余地が相当ある」と強調しています。

食生活改善に一段と工夫研究を求め

 そしてここからが本題ですが、近々迎える秋餅について「例年の量より本年は半分に」と周知徹底するよう求めています。せっかくの骨休めになる里帰り、娘を迎える実家にまで厳しい目を光らせたのです。そんな無茶が、銃後の女性の役割とされたのです。

秋餅を例年の量より本年は半分にと…

           ◇
 一方、同じ1943(昭和18)年3月、上伊那郡美和村(現・伊那市)の非持、非持山両地区では「葬儀の枕飯」と称する風習が常会で問題になりました。これは、遺骸を埋めた後、大きな茶碗に白いご飯をしっかり山盛りにして供える風習で、できる限り大盛りにするのが亡くなった人への礼であるとされていました。
 既に玄米食や節米が叫ばれている中、鳥の餌食にするのはいかに長い伝統とはいえ廃止せよ、と一決し、墓参りのお供えにも、コメや団子のお供えは全廃として、水と花のみとしました。(以上、1943年3月7日付信濃毎日新聞より)
           ◇
 さらに、死後の法事を取りやめる動きも。以下に1943(昭和18)年3月12日付信濃毎日新聞記事を著作権切れを受けて転載します。(句読点を適宜入れ、漢字を直しました)
 「更級郡西寺尾村では大東亜戦を勝ち抜くにはまず農村生活の不急不要の行事の廃絶や繰り延べによって物資の節約、時間の空費防止を図らねばならぬという建前から、今度常会の決議事項として法事の延期を採択した。法事は父祖の追悼祭祀として絶対廃止はできないが然しこれによって物資の冗費はもちろんのこと、親戚縁者が集まれば増産時代それだけ労力も割愛されるので『勝つまでは法事をやめよう』ということになったもので、その代わり完勝の暁は報告祭を兼ねて盛大に催そうと期せずして決定したものである(略)」
           ◇
 何もかもを戦争にーという掛け声は、国民の伝統や風習を次々と薙ぎ払っていきました。特にガダルカナル島が陥落、撤退し、日本軍の敗勢が強くなってきた1943年からは、とんでもない現象が次々と生じています。戦争する国家のため、庶民のささやかな祈りや願い、楽しみ、先祖を思う心などは簡単に吹き飛ぶと、よく覚えておきたいものです。

ここまで記事を読んでいただき、感謝します。責任を持って、正しい情報の提供を続けていきます。あなた様からサポートをしていただけますと、さらにこの発信を充実し、出版なども継続できます。よろしくお願いいたします。